最低限の愛でいい
仕事を終えて、ロッカーから荷物を出す。スマホを確認すると、新着メッセージが二件。誰かと思えば消太で『明日休みだったよな』『今夜会えるか』という用件が、三十分前に届いていた。何かあったんだろうか。消太に限って、会いたいだけ、なんて可能性はゼロに等しい。
上着に袖を通し、マフラーを片手で巻きながら文字を打つ。
『今終わったとこ。消太の家で待ってるね』
外気に触れた頬が痛い。肌を滑るのは、冷ややかな風。吐き出した息は白く、夕方に降ったのだろう雪が、道端にうっすらと積もっている。
『相澤になる覚悟は出来てるからね』
そう伝えてから、もうすぐ三ヶ月が過ぎようとしていた。
あれから結局、結婚についての話はない。それでも、消太なりに考えてくれているとは思う。
以前よりは家に帰っているようだし、この間、郵便受けに届いていたのは指輪のカタログだった。いつもなら届いた郵便物を中に入れるけれど、見ない方がいいかとそのままにしておいたことは記憶に新しい。
プロポーズの場所や仕方にこだわる人ではないだろう。でも、男性特有のプライドがないとも言いきれない。それに、あんなに心細かった待つだけの期間が、今は愛おしいとすら思える。
見慣れた家には、既に明かりが灯っていた。いつも合鍵で勝手に開けているからか、インターホンを押すのは変な感じだ。
ほどなくして、ガチャ、と開いた扉の向こう。相変わらず、ボサボサ髪の消太が顔を出した。
「お疲れ、なまえ」
「お疲れさま。早かったんだね」
「ああ、まあな」
「お邪魔します」
通されるままに玄関へ入り、靴を揃える。暖房のついている室内は暖かく、テーブルの上には、雑誌が数冊広げられていた。上着とマフラーをソファに置いて近寄ると、それは指輪のカタログや結婚式場のパンフレットで。
「消太、これ……」
珍しくキッチンに立っている彼を見遣ると、照れくさそうに泳いだ視線が、少しして伏せられた。
くるくるとかき混ぜているのはシチューか。いい香りが漂いはじめたせいで、妙な空気を遮るように私のお腹が鳴る。吹き出した彼は、肩を震わせてから、ようやく口を開いた。
「飯でも食いながら、一緒に決めようと思ってな。色々回ってみたが、どれがいいか分からん」
「ずっと探してくれてたの?」
「一応な」
カタログをまとめて、端に寄せる。丁度ご飯を持ってきてくれた消太に合わせて、お箸の準備。手料理なんていつぶりか。言ってくれれば私が作ったのに、と声を掛ければ「気が向いた」とだけ返ってきた。
きっと、消太なりの気遣いなんだろう。もしかしたら、サプライズも視野に入れていたのかもしれない。
そんなの、別になくたっていいのに。消太が怪我をした時、いの一番に連絡が入るようになるなら、それで構わない。消太と婚姻届さえあれば、指輪も式も、贅沢は言わない。
「安いのにしよ」
「遠慮しなくていいぞ」
「してないよ。高いものじゃなくても、消太と結婚出来るだけで十分嬉しいの」
「……そうか」
「あ、照れてるー」
「照れてない」
まるで誤魔化すように「いただきます」と手を合わせる姿に笑う。
もうすぐ相澤なまえになれるなんて、仕事の疲れも日頃の鬱憤も、全部忘れてしまいそうなくらい嬉しくて仕方ない。
少し味付けの違うほかほかシチューは、とても新鮮で、とても美味しくて、あたたかくて。それもこれも全部私の為だと思うと、幸せで死んでしまいそうだった。