「お疲れ様です」って声に、会釈を返す。珍しく、残業せずに帰るらしい。飲みにでも誘おうとしたのだろうマイク先生の待ったも聞かず、いつも通りの猫背は廊下へと消えていった。

単に余裕があるのか、体調が優れないのか、究極に気分が乗らないのか。職場にいる間は、お互い適度な距離を保っているので分かりにくい。
まあでも、いい歳をした大人である。例え体調を崩していても、自分で面倒くらい見れるだろう。仕事を疎かにしていると怒るので、やらなきゃいけないことはやってしまわないと後々怖い。


指を動かして、キーボードを叩く。
今日の事務処理が終わったところでパソコンを落とし、カーディガンと鞄を腕に引っかけた。


家の鍵は、既に開いていた。


「ただいまー」
「お帰り。早かったな」
「まだそんなに忙しくないからね」


リビングから顔を出し、のそのそ寄ってきた消太の襟元を引き寄せる。軽く触れた唇は相も変わらずカサついていて、薬用リップでも買ってあげなくちゃなあ、なんて。

たぶん、考えていることが分かったんだろう。小さく笑った消太は私の頭を撫でて、それから荷物をさらっていった。


手を洗って、お風呂のスイッチを入れて。週末のご褒美も兼ねて出前でもとろうと、消太の膝の間でメニューを広げる。お腹に回された腕も、背中を覆う体温も、いつも通りで心地いい。誰に介入されるでもない家での距離はゼロに等しく、愛おしさがふわふわ浮上する。


「今日は何で定時だったの?」
「あー……内緒」
「えー」


ぽすり。首筋に触れる髪がくすぐったい。肌を滑るゆったりとした吐息に、消太が落ち着いていることを知る。どうやらそこそこ元気らしい。はぐらかされた理由は気になるけれど、今回は見逃してあげよう。

首を傾けて、コツンと消太に当てる。


「何食べたい?」
「なまえに合わせるよ」


私の肩口に顔をうずめたまま、もごもご発せられた低音は、今日も今日とて穏やかだった。

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