可愛いって言ってほしい



「はい終わり」


私の頬からブラシを浮かせ、野薔薇は満足そうに笑った。やーさすが光るわね、とそれはそれはご満悦。どうやら上手に出来たらしい。「可愛くなった?」と尋ねれば「元々可愛いわよ」なんてお世辞と共に、折り畳み式の四角い鏡が渡される。おそるおそる開いてみれば、そこにはいつもとぜんぜん違う煌びやかな私がいた。

野薔薇いわく、下地から丁寧にカラーバランスを気にしつつ、透明感を損なわないようクッションファンデとフェイスパウダーで整えた肌はなめらかツヤツヤ。アイラインは締め色であるバーガンディ。ほんの3mm目尻をオーバー気味に跳ね上げ、ピンクとブラウンのグラデーションで馴染ませている。紫色の偏光ラメが瞼できらきら表情を変え、ぷっくりとした涙袋で輝く細かな粒子が瞳へ光を映す。下地をたっぷり塗った睫毛は、元来カールと長さがあるため、主張し過ぎないブラウンマスカラ。頬の高いところでじんわり広がっているコーラルチークが可愛らしい。極めつけは潤いたっぷりウォーターティントリップのコーラルレッド。内側から滲み出ている立体的なぷるぷる感には、最早感嘆するほかない。え、野薔薇すごい。


「あんた素材いいんだから、たまにはこういう強めの化粧もしてみたら? 普段のナチュラルも好きだけど、きっとみんな驚くわよ〜。菰野とか」
「っ、」


突然飛び出た彼の名前に、思わずぴくんと跳ねた肩。幸い野薔薇は化粧品をポーチに仕舞っている最中。気付かれてはいなかった。

ホッと胸を撫でおろしつつ「そうかなあ」ってコテの電源をオンにする。菰野くん、びっくりしてくれるかなあ。どうせなら『急にどうしたの? イメチェン?』って方じゃなく『えっ可愛い!』って方の衝撃だったらなあ、なんて。それは贅沢過ぎるかな。似合ってないって思われなければ御の字くらいの心構えで会いに行こう。今日はどこにも出掛けてなくて、男子寮のお部屋にいてくれますように。ああどうしよう。ちょっとわくわくしてきたなあ。

彼のことを考えるだけで勝手に頬がゆるんでく。なにニヤケてんのよ。ちょっとね。野薔薇に温まったコテを渡せば軽く毛先を巻いてほぐして、ふわっふわに仕上げてくれた。




男女の感性は違うとよく聞くけれど、実際のところはどうなのか。気に入ってくれるかな。せめて引かれないといい。彼の部屋が近付くにつれ、不安ばかりが胸の内で肥えていく。それでも足は止まらなくって、ついに着いた扉前。ひと呼吸置き、心の準備をしてからコンコン。ノックした。


「はいはーい」


聞こえた声に背筋を伸ばす。「どちら様すかー?」と先に開いた向こう側、チョコレート色の瞳と視線が交わった。胸の前まで引っ込めた手をちいさく握る。きゅ、急にごめんね。用意していたはずの言葉は、それでも少しどもってしまって恥ずかしい。どうしよう。菰野くん、何も言ってくれないな。やっぱり変に思われたかな。

今にも泳ぎそうな目を、なんとか瞬くことでとどめたその瞬間―――パタン。静かに扉が閉められた。


「…………え?」


何度確認してみても、目の前にあるのは不動の木製扉。ノブが動くこともなければ、菰野くんが出てくる様子もない。もしかして、嫌がられた……?

さあっと血の気が引いていく。どうしたらいいんだろう。どうすればよかったんだろう。とりあえず呼んでみる? 返事をしてくれなかったら? ハッキリ拒絶されてしまったらどうするの?
わからない。頭は真っ白。まともな案なんて浮かばない。でも向き合わないまま涙を呑んで逃げ帰るのは、なんだか違う。不快な思いをさせてしまったなら謝りたいし、明日から気まずくなってしまうのは絶対避けたい。

氷みたいに冷たくなった指先を、扉の木目にそうっと這わす。床板がぎしぎし唸る木造校舎と似通っている建物だ。見た目はきれいにしているけれど、躯体の古さはそう変わらない。防音なにそれ美味しいの? 状態であることは、以前野薔薇の部屋から漏れてたテレビの音で学習済み。だから今、わざわざ菰野くんを呼び出さずとも、たぶんこのまま話が出来る。出来なくたって、声が届けば十分だ。

嫌な動悸を宥めすかす。ようやく頭が冷えてきて回るようになった頃、隔てた扉の向こうから多分に焦りを孕んだ声が抜けてきた。


「は、え、かッッッわ……!」
「……?」
「めっかわ! え、っえーーーー!!」
「……」
「っ、てかなんで閉めた俺のばか……!!!」
「……」


どうやら混乱しているらしい。「でも仕方なくね!? あんな可愛い美少女前にして無理くない!?」とか「いやでもさすがにねーよどーする!? どーする俺!?」とか。くぐもっていながら鮮明に聞こえる数々は、ずいぶん取り乱していた。


「は〜〜ほんと可愛いむりやばい」


月本ちゃんまじ……。私の名前が呟かれ、呆気にとられて鎮まっていた自覚がドッと湧き立った。別種の動悸が鼓膜を覆う。体が熱くて、顔も熱い。夢を見ていた『えっ可愛い!』って方の衝撃、期待値以上のホイップ上盛りまさかのボリューム倍増加減でいただけちゃって、今度は脳がものの見事にショートした。