終わらないプレリュード


エレベーターからおりる。廊下を進んだ先の角。自宅である玄関前に、嵩高いシルエットがひとつ。


「よぉ。遅かったな」


扉から背を浮かせた甚爾は「ちょっと暫く泊めてくれ」と片口を上げてみせた。私が殆ど断らないことを知っての、にやにやとした嫌な笑み。それがまた様になるのだから、全く顔の良い男は困る。

どこぞの馬の骨から逃げてきたのか、単に行くあてがなくなったのか。彼がいつも引き連れてくる知らない香水のにおいは、珍しく不在だった。


「対価は?」
「あー、体?」
「……」
「んな睨むなって。冗談だ」


溜息混じりに目を逸らす。扉前からしっしと追い払い、覗いたマークへカードキーを翳せば解錠音が鳴った。

ノブを引く。扉が開いて、けれど閉まる。自動じゃない。後ろから伸びてきた甚爾の手が閉めた。浮いた血管が指まで走る無骨なそれに顔を顰めた刹那。


「なまえ」


耳元、鼓膜の真横で響いた低声に肌が粟立つ。宥めるような、甘えるような。そのくせ心の内は微塵も読ませない声色が憎いと思う。女の扱いに慣れきっているからこそだろう余裕さえ、彼を映し得たことなどないに等しい。

都合の良い女の元で食べて飲んで寝て暮らし、例えば結婚やら束縛やら、とにかく面倒になってくれば私の元へふらりと帰ってくるそのスタンスが恨めしい。


「皿洗いに添い寝。今ならもれなく腕枕付き。オマエの許可無しには触らねえ」
「随分サービス良いけど、もしかして腹ペコちゃんなの?」
「ご明答」


振り向きがちに持ち上げた視界の中、枝豆色の瞳が間近で笑った。そうして再び首を傾げ「で?」なんて、本当に狡くて嫌になる。扉に肘をつき、私をすっぽり囲ったまま。逃す気も拒否権も与えないくせして、いけしゃあしゃあと詰問する。それでもなし崩しに上がり込もうとしないのは、きっと気に入っているからだ。愛も体も求めない、ただ寄り添って眠りたいだけの私が、たぶんそこそこ。あの甚爾が。


馬鹿だなあ。

心のどこかで自嘲しながら、僅かな希望に夢を見る。仕方ない。惚れた弱みだ。なんてったって顔が良い。まあ、あいにく騙されてみたいとは微塵も思わないけれど。上辺だけの甘い言葉も、心が伴わない慰めも、他の女と同じ括りの馴れ合いも、全部全部要らないけれど。


「良いよ。のった」
「よっし」


今日の晩ご飯はカレーにしよう。


title 溺れる覚悟