ぼくの心をちぎってあげよう


ひんやりとした至軽風が、畳の匂いを巻き上げた。街も人も草木も眠る、深く凪いだ夜の底。暖を求めて伸ばした指は、けれど空を切るばかり。


「……すぐる?」


ああ、またか。

瞼を擦り身体を起こす。光が洩れでる雪見障子を、そうっと開けた向こう側。板の間特有の風情を醸し夜をくりぬく円窓に、彼はいた。木枠へ腰かけ背中を預け、立てた片膝は肘置き代わり。月華を弾く肌の白さがよく映える。


「傑」
「……ああ、すまない。起こしてしまったね」


申し訳なさそうに微笑んだ傑は「少し寒かったかな」と、傍に寄ったわたしの頭をゆるゆる撫でた。大きな手のひらはあたたかく、触れた頬も冷えてはいない。きっとここでぼうっと月を眺め始めてから、さほど経っていないのだろう。

夢見が悪いわけではない。わたしが隣にいる限り寒くもならない。ただ時折、ふ、と目覚めることがある。そんな傑の体温が下がる前に気づけて良かったと思う。反面、もう少しひとりにしておくべきだったかと罪悪感が顔を出す。でもごめん。ごめんね傑。わたし、決めたんだ。もう離れないって。怒鳴られたって嫌がったって――もちろん傑がそんな風に取り乱すことはないと知っているけれど――もうひとりにはしてあげられない。


「むしろ起こして欲しかったよ」
「寝ている君を?」
「うん。無理だろうけど」
「よく分かってるじゃないか」


笑い混じり。いつも見上げてばかりの眦が、僅か下方で和らいだ。とても穏やかな表情だった。「さあ」と静寂に溶けゆく低声も、「私も行くから布団に戻ろう」って寄越された触れるだけの可愛いキスも。わたしに対する傑のすべては、常にやわく甘かった。

今、彼は幸福の中で生きている。愛しいわたしを傍に置き、美々子も菜々子も大きくなった。未来永劫ブレない意志を内に秘め、両の足で立っている。縛るものは何もない。高専も五条も善悪も、彼の正しさを揺るがすものは何もない。それでも未だ、彼の中に彼はいない。


「なまえ?」
「……」


心が、ひずむ。









真っ直ぐだった。どこまでも。呪術師なのにスレていなくて、自分を律する公平性を持っていた。極端にたとえるなら、正しさが人間の形をしているような、確かに生身の人間であるというのにまるで能面を相手にしているような、とにかく奇妙な感覚だった。誰が何をどうしたいって話じゃなく、こういう世界だからこうあるべきだと説く人だった。

普段は五条とじゃれたり張り合ったり、硝子の煙草をもらってこっそり吸ったり、本当に普通の男の子。けれど彼は本音を隠して抑え込む。きっとひどい味だろう呪霊を呑み込んだ後でさえ。もしかしたら五条や硝子には違っていたかもしれない。もっと自然に等身大で、不味いだとか最悪だとか。たとえ笑いながらでも素直にこぼしていたかもしれない。分からない。ただわたしには―――少なくともわたしの前では、いつも微笑むだけだった。つらいよね、しんどいよね、ってどれだけ自然に促しても頷こうとはしなかった。


『なまえは心配性だね。ありがとう』


きらいだった。ウソばっかりの良い子な傑も、頼られるだけの強さを持たない自分自身も。まあ傑にとってのわたしは特別な存在で、唯一下心を抱く相手だった――ともに逃げて三年目の冬、本人からそう聞いた。熱烈な告白みたいな言葉の数々は使い古しなんかじゃなく、ちゃんとわたしのためだけに用意された恋情だった――ようだから、かっこ悪いところは見せたくないって男心が絡んだのだろう。確かにいつも気にかけて、単独任務の合間にも電話をくれていたりした。

誰より仲間思いで大真面目。腐り切ったこの世の中に完璧なんてどこにもない。それが許せなかった、優しい人。ボロ雑巾みたいに擦り切れていく同胞を“術師だから”と割り切れなかった、優しい傑。

日が経つにつれ、彼は見て分かるほどやつれていった。光が消えゆく疲れた瞳を癒してやれず、かける言葉も見つからず。ただ隣に座って手を握るくらいの寄り添い方しか知らなかった当時のわたしは、今よりずうっと青かった。救えなかった。護れなかった。それがわたしの痛みを生んだ消えざる罪。なのに誰も―――傑さえも、どうしたって責めてくれないから、わたしがわたしを咎める他に術はなく、今日も今日とて心が撓う。







「どうしたんだい」


傾いた額に口づける。たぶん外気に浸しているせい。指で梳いた濡れ羽色はパサついていた。雪のように冷ややかで、わたしの温度を奪いゆく。

瞠目した傑は息を吐くように小さく笑った。


「ずいぶん可愛いことをしてくれるね」
「ダメだった?」
「いや? 全然」


わたしの手をごつごつとした手が包む。ついで立ち上がったかと思うと、今度は腰を捕らわれた。引かれるまま大人しく身を寄せた腕の中はあたたかく、互いの熱がまざり合う。まるで存在を確かめるよう。ぎゅうっと強く、けれどゆるやかに抱き締められて瞼を閉じた。肺いっぱいに彼の匂いを吸い込んで、体の内も心の外も愛しい傑で満たされる。


「好きだよ。君のそういうところが、昔から」
「……うん」


わたしの罪が、飽和する。


fin.


Dear.「花熱」はるこさん* 相互記念
日頃の愛と感謝を込めて、親愛なるはるこさんに捧げます。今後ともどうぞ末永く、よろしくお願いいたします。
Request 教祖時代の夏油傑
title るるる