彼の世界で息がしたい



私の世界にないものが、彼の世界で息をしていた。強いて言うなら、それくらい。惹かれた理由なんて、そんなもので十分でしょ。

言うと、学年一のモテ男を豪語する二学年上の男は「なまえってほんと変わってるよね」と、小学生の頃から何一つ変わらない感想をぼやいた。仮にも自分の妹に対して、なんとも失礼なコメントである。


「そんなに飛雄が良いの?王様だよ?」
「そうしたのはお兄ちゃんでしょ」
「違うし。そもそもそういう資質を持ってる人間だったってことだよ」
「難しいことは分かりませーん」
「お前ねえ……」


ああだこうだ。さっきから口うるさいお兄ちゃんに、思わずこぼれたのは溜息。

もちろん、私を大事に思ってくれていることは知っている。はじめくんに『シスコンな兄貴を持つと大変だな』って良く言われるし、自覚はある。だから家を出る時に、ちゃんと心配させないよう、飛雄くんと買い物してくるねって伝えたのに、何でついてくるのか。飛雄くんは優しいし度胸もあるし、可愛いお姉さんにちやほやされて図に乗るお兄ちゃんなんかより、よっぽど安心感のある男の子だ。


「もう飛雄くん来るから大丈夫だよ」
「てか女の子待たせるって有り得なくない?」
「私が早く来たんだから良いの。ほら帰って」


まだ来てないじゃん、と駄々をこねるお兄ちゃんの腰を小突く。こんな時、はじめくんがいれば問答無用で引っ張って行ってくれるのに、あいにく今日は不在なのだから自力で頑張るしかない。このままではデートにまでついて来そうだ。ハッキリ言って困る。月曜日は部活無しと決まっている青城と違って、飛雄くんのオフ日はとっても貴重だった。そうそう一緒に出掛けられるわけではない。

もういっそのこと、ストレートに邪魔だと言ってしまおうか。拗ねるだろうなあ。面倒くさいなあ。なんてぐるぐる考えていたら「悪ぃなまえ」って声が一直線に届いて、私の鼓膜を惹きつけた。


「待たせた」
「全然待ってないよ」
「ちょぉっと飛雄ー。うちのなまえ待たせるとかどういうつもりー?」
「あ、及川さん。いたんスか」
「もう帰っていいよお兄ちゃん」
「扱いがひどい!」


ぶすくれるお兄ちゃんの隣から、飛雄くんの隣へ移動する。筋張った大きな手へこっそり私の手を滑り込ませれば、一瞬ぴくりと震えたけれど、しっかり繋いでくれた。少しだけ高い体温がなんとも心地良い。目敏く気付いたお兄ちゃんは大人気なく口を尖らせて、けれど文句は言わなかった。


「泣かせたらタダじゃおかないからね」
「?泣かせることないんで大丈夫だと思います」
「それから、帰りはちゃんと家まで送り届けること」
「っス」
「ん。ちょーむかつくけど、行って良し」


なんだかお兄ちゃんじゃなくてお父さんみたいな言い草に、心の中で笑いながら安堵する。さすがに同行する気はなかったようだ。

気が変わらない内に「行ってきます」と声を掛け、飛雄くんの手を引く。夏の湿った風に吹かれながら公園を抜けて、並んで歩くは川沿いの遊歩道。敷き詰められたカラフルな小石も、太陽の光を反射してキラキラ光る水面も眩しい。彼の隣では、いろんなものが輝いて見える気がする。


「お兄ちゃんがごめんね」
「ああ、中学ん時からあんなだし気にしてねえ」
「ありがと。お兄ちゃんはああ言ってたけど、家すぐそこだし、帰り送ってもらわなくても大丈夫だからね」
「や、それは送る」
「いいの?ちょっと遠回りになっちゃうけど……」
「おう」


迷いのない相槌とともに、ぎゅ、と強く握られた手。思わず立ち止まれば、飛雄くんも足を止めた。いつになく真っ直ぐな眼差しが、私の意識をさらっていって。


「送った方が、長く一緒に居られるだろ」


しっかりそう言った飛雄くんは、けれど、やっぱり恥ずかしかったのだろう。きゅ、と唇を結んで「行くぞ」と歩き出したその耳は、ほんのちょっぴり赤かった。



【夢BOX/及川さん妹と飛雄ちゃん】