手を結ぶための火傷



「そんでもう爆笑! で、店出て帰るかってなった時にたまたま金田一がいてさー」
「待ってたよ」
「え?」
「わたし、待ってた」

 あんまり楽しそうに話すから、つい言ってしまった。口が滑ったというよりは、喉の奥で堰き止めていた嫌なわたしが溢れ出た。決壊してしまったダムは修復不可能で、昨日の夜から今の今まで散々殺した感情の水位が上がってく。

「貴大、帰る時いつも連絡くれるでしょ。十一時くらいには解散すると思うって言ってたから、待ってたの。それから二時間」

 なにが言いたいか、わかるよね。貴大は失礼ながら意外と賢い。人の機微をよく見ているし、よく気がついてフォローする。基本的に。だからわたしの言いたいことも、わかるよね。本当は言いたくないってことも、こんなわたしがわたしは心底嫌いで許せないってことも、わかるよね。わかるくらい長い期間お付き合いしているね。
 見つめ合う。驚いたように見開かれた目が元の幅へと戻っていって、しゅんと眉が垂れ下がる。

「ごめん、なまえのこと忘れてたとかじゃ、」
「うん、いいよ。考えてなかっただけだよね」
「ごめん。楽しそうに話して……」
「うん」

 低姿勢でずっと下からわたしの顔色を窺う彼は、開きかけた口を閉じて俯いた。謝罪以外の言葉が見つからないらしい。いや、そもそもわかっているのだろう。怒り、虚しさ、自己嫌悪、悲しみ。そういったものを抱え込んだわたしには、なにを言ったって無駄なことを。
 重い空気が漂う中、更に追加の溜息を吐き換気扇の弱を押す。電子タバコのスイッチを入れ、真っ白なフィルターに口をつける。きついメンソールを吸い込めば、ミント味の清涼感が上顎の奥で広がった。肺まで入れずに吐き出す度、口と鼻が繋がっていることを思い出す。

「……なまえ」
「うん、いいよ」
「……」

 ああ、ここでごめんと言えたらよかったなあ。言い過ぎてごめん、鬱陶しくてごめん、あなたが楽しめたならそれでいいって思いたいのに意地悪でごめん。
 そうしたら貴大の心は今よりうんと軽くなる。わかっているのに言えないわたしは、なんて弱くて贅沢なのか。

 同棲を始めてからだ。昼間は仕事があるけれど、朝と夜は毎日一緒。最初は心がふわふわするくらい嬉しくて幸せだった。なのにだんだん物足りなくなってきて、一日中傍にいたくって。
 わたしの一番は貴大だから、彼もそうであってほしい。常にわたしを頭の隅に置いてほしい。わたしは貴大と過ごしたいから、仕事が終わればさっさと退社して帰る。寄り道なんてもちろんしない。他の誰より彼と一緒にいたいから、友達との交流はランチだけ。夜しか会えない子ならディナーには行くけれど、できるだけ早く帰宅する。間違っても、つい楽しくて時間を忘れることはない。だって貴大が好きだから。友達よりも親よりも、貴大と同じ空間で過ごす方が何百倍も癒される。何千倍も嬉しくて、何億倍も有意義だ。
 でも貴大はそうじゃない。当たり前。貴大はわたしじゃないし、人類みんな同じじゃない。そもそもわたしは一緒にいて楽しかったり癒されるような女じゃない。そんなに出来た人じゃない。だからこそ余計、わたしと彼の気持ちの差分が悲しくって耐えられない。こんなわたしじゃ嫌われるってわかっていても、耐えきれないのだ、どうしても。自信なんて微塵もないから、彼の愛を疑ってしまう。



「なあ、なまえ」

 呼びかけられて、どこも見ていなかった視線を持ち上げる。依然と眉を下げたままの貴大は、嫌がらないか確かめるようにそっとわたしの腰に触れ、それからそうっと腕を回した。やわい力とやさしい温度、申し訳なさそうな空気感。わたしのためだけのすべてに罪悪感が湧く。引き寄せられるままに凭れかかり、こぼれ出そうな涙を押し留める。

「聞いて」

 鼓膜の隣。貴大の真面目な声が、ひとつひとつ紡いでく。

「俺、ちゃんと好き。なまえのこと。じゃねえと一緒に住んでねーし、帰ってきておまえがいたらホッとする」
「……」
「ほんとごめん。昨日は久しぶりのメンツだったし、ちょっと……や、かなり浮かれてました」

 軽率だった、ごめん。

 謝罪で締めくくった貴大に、今度はぎゅっと抱き締められる。もういいよ、大切に想ってくれているのはわかったよ。そう言いたいのに喉が詰まって声が出ない。口を開いたら泣いてしまう。
 だからもう少し待ってね。こうして愛に触れたまま、わたしもごめんって言わせてね。


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