わたしを肯定するひと



 火をつけてフィルター越しに煙を吸う。百害あって一利なし。正にそうだと思うから、これは毒だ。この煙は毒。肺も空気もクロスも汚れる。けれど穏やかにもなれる。頭を真っ白にしてくれる。なにも考えずにいられる時間というのはとても貴重だ。社会人になってから、そう、よく思うようになった。

 生活のこと、趣味のこと、会社のこと、家族のこと、友人のこと、自分のこと、貴大のこと。病気になるほど悩んではいないけれど、考えごとは日々尽きない。人や社会の裏の顔に侵されて、心も思考も後ろばかりを向いてしまう。自分を知れば知ろうとするほど嫌いになるし、相手の気持ちを思えば思うほどわからなくなる。私にどうして欲しいのか、私は一体どうしたいのか。
 答えの出ない自問をひたすら繰り返す。いい加減もう疲れたと白旗を振って降参してしまいたいのにループする。
 そんな時、煙草があれば救われた。だからなんとなく手放せないでいる。甘い毒だとわかっていても。学生時代はスポーツマンだった貴大も。


 灰皿代わりの空き缶を持って、腰をあげる。


「なまえ? どっか行くの?」
「コンビニ。煙草きれちゃったから」
「お、いいね。俺も行く」
「いいけど、上、着なよ」
「わかってる」


 さすがにこんまま外には出れねーわ。扇風機の前から動いた貴大は暑い暑いと言いながら、放ってあったTシャツを手に取った。薄いピンクが似合う男を貴大以外に私は知らない。
 サンダルを引っかける。深夜のドンキで見かけるようなキャラクターサンダルは、いつだったか貴大と旅行へ行った時にノリで買った色違い。懐かしい。このラフさもサンダルも、蝉の声も青空も――。
 入道雲が泳いでいる。


「暑いですなあなまえさん」
「ですねえ」
「もう三十度超えてんだって」
「うわ。真夏やばそう」
「まじそれ。勘弁だわー」


 どうでもいい話をのんびりしながらペタペタ歩き、横断歩道で信号待ち。ああ暑い。立ち止まると途端に蒸し暑い。もう少し歩道に木々を植えてくれたらいいのに。そうしたら、日陰に避難できるのに。
 吹き出る汗を軽く拭って、視線を落とす。向こう側まで等間隔に続く白線が網膜を焼く。眩しい。夏ってどうしてこんなに陽射しが強いんだろう。コンクリートの灰色さえも光って見えて、肌はジリジリ焦げつくよう。
 正直あんまり好きじゃない。でも、こうして貴大と肩を並べて過ごす夏は嫌いじゃない。


「なまえさあ」


 貴大が呟くように言う。


「なんで吸ってんの」
「煙草?」
「そう」


 右隣を見上げたけれど目は合わなかった。横断歩道の先を見ている貴大の視線はとても静かで、なんとなく真面目な話なのだと悟る。どう答えたものか。貴大の気持ちを汲み取ることはむずかしい。気さくなタイプでとても気付きにくいけれど、実はあまり表情を変えない人だった。


「ストレス解消、かな」
「あーわかる。俺も仕事辞めてーってなった時に本数増えたわ」
「体によくないってわかってるんだけどね」
「な。禁煙むずいよね」
「うん。よかった。理解が得られて」


 よかった、嫌われなくて。危うく口からこぼれそうになった言葉を呑み込む。貴大は、私が喫煙者だからといって嫌うような人ではない。嗜好品で好き嫌いを決めたりしない。ちゃんと、人そのものを諦観する。そんな彼がコンビニに行く数分さえも傍に居たがる私はきっと、少なくとも、悪じゃない。

 こちらを向いた貴大と目が合って、視界の端の赤信号が青に変わる。


「俺はどんななまえも好きだよ」


 蝉の声を鼓動音が上回る。貴大越しの夏空は、やけに色濃く、愛しく見えた。