ためらいに降る雨が止むとき
"いま出先か?"
メッセージが届いたのは、しっかり残業代を稼いだ帰りだった。はじめらしいシンプルな文面に"さっき仕事終わって帰ってるとこ"と返信する。すぐに電話をかけても良かったけれど、唐突な着信が意識の妨げになってしまうことを知っていたからやめた。
高校を出てからずっと平凡に働いている私と違って、はじめは難しい道を歩んでいる。いくら日本を代表する選手たちのトレーナーに選ばれているとはいえ、努力せずに居続けられる地位ではない。できるだけ邪魔はしたくなかった。
それでも声が聞きたいなあと思う。はじめの声が聞きたくなって、初めて私は疲れていることを自覚する。
"ね、電話してい?"
風に遊ばれ肩から滑り落ちるマフラーを巻き直す。間もなく既読がついて着信画面に切り替わった。はじめのアイコンは相変わらず強そうな怪獣で、いつも少し笑ってしまう。
『もしもし、なまえ?』
「うん。お疲れさま」
『お疲れさん。なんか嬉しそうだな?』
「はじめの声聞きたかったから、嬉しいの」
聞こえた咳払いは照れ隠し。おまえなぁ……と、耳にあてたスマートフォンからはじめの息遣いが伝わってくる。まるで彼が隣にいるみたい。若干の機械音は混ざっているけれど、仕事の疲れが吹き飛んで寒さもあんまり感じない。きっと私の全神経がはじめに向いているからだ。
赤信号で足を止める。はじめがいる向こう側でエンジン音が通り過ぎた。
「外にいるの?」
『おう』
「そっか。一緒だね」
まだ日付は変わっていないから人類の半分くらいは屋外にいると思うけれど、たったそんなことで嬉しくなる。胸の内側がじんわり温もる。これが恋の病かな。病というより魔法の方が近いかな。
車が一台通り過ぎる。
「そういえば、なにか用事だったの?」
『あー……用事ってほどでもねえけど』
「なになに? はじめも私が恋しかった?」
会話繋ぎに冗談めかせば真に受けたのだろう。沈黙が返ってきて、やがて照れくささを隠すような低声が『まとめるとそうなる』と白状した。
まとめると、ということはメッセージ送信以外にまとめられる行動があるのだろうか。電話を提案したのは私。だから今こうして話していることは勘定に入らないはずだけれど。なんて考えつつも、内心、はじめの言葉に浮かれている。
信号が青に変わった瞬間、電子的なひよこの鳴き声が夜空を抜けた。いつも通る通勤路、連なる白線を渡り終えて、はたと気づく。鼓膜の隣、スマートフォンの向こう側で同じ音が鳴っている。
「はじめ」
『ん?』
「もしかして……もしかする?」
『ふはっ、なんだそれ。おまえの想像してるもしかがわかんねーけど、まあ、俺のが早く着きそうだな』
いたずらな声色に、悪い顔のかっこいいはじめが目に浮かぶ。さっきまで私の不意打ち発言に照れていたはずの可愛らしさは見る影もなく、温かかっただけの鼓動がうるさくなって、待ち遠しくて、嬉しくて。
たまらず私は駆け出した。パンプスだとか風が冷たいとかどうでもいい。ただ一秒でも早く数メートル先にいるだろう広い背中に飛びついて、危ねぇだろ! と、その愛しい声で叱られたい。