春を知る



ぽつり、ぽつり。
ぽたぽた。ぱたた。

灰色の空から降ってきた雨粒が、リズミカルに窓を叩く。

あーあ、傘持ってないのになあ。
お天気お姉さんの予報は、残念ながらハズれてしまったらしい。
先生の子守唄みたいな授業を聞き流しながら、こぼれるのは溜息。つまらない文法がぎっしり書かれたページへ沈んだそれにつられ、私の気分も落ちていく。


もし今日が曇りだったなら、学校帰りに書店へ寄って、好きな作家さんの新刊を買っていた。そうして、駅前に出来たコーヒーショップで香りの良い豆を選んでから、近所のスーパーでお菓子を仕入れて、明日はちょっと贅沢な休日を過ごす予定だったのだ。

べつに、何も特別なことなんてないけれど、受験生である今、そういった自分へのご褒美は意外と大切だ。この授業が終わるまでに雨がやんでくれることを切に願いながら、ペン先をノートへ走らせる。


暫くして響いたチャイムの後、きっと終わりを告げたのだろう先生の声は、さっきよりも強くなった雨音に掻き消されて、よく聞こえなかった。
私の願いは届かなかったのか、それともリリースされてしまったのか。どちらにせよ、今日は濡れて帰るしかない。

せめて駅まで傘にいれてくれる人はいないかとクラスに目を配る。カラオケだのご飯だのと遊びまわることが多い女友達が全員頼りにならなさそうな中、目が合ったのは岩泉だった。



「もう引退したんだっけ」
「おう。まだ顔は出してるけどな」
「後輩の子守り?」
「いや、九割息抜きって感じだな」
「ほんとバレー馬鹿」
「うっせ」


少し穏やかになった雨が、周囲の音を遮断する。
黒い傘の中で響くのは、岩泉と私の声。

親同士の仲が良くて小さい頃から知っているのに、時折触れ合う肩が、なんとなく照れくさい。こうして並ぶのは久しぶりで、いつの間にか、大きく逞しくなっていたことを知る。


「みょうじは冬までか?」
「うん。文化祭が終わるまでは居座る」
「長ぇな」
「運動部が短いんだよ」


そうか、と納得した様子の岩泉は、引退した実感が湧き出した頃なのか、少し寂しそうに見えた。中学の頃から美術部一筋な私には分からないけれど、運動部は色々と思い入れが強いのだろう。あいにく、優しい言葉も楽しい話題も見つからなくて、静かに降りるのは沈黙。ふわふわとしたこの心地いい感覚は、懐かしさなのか、それとも別の何かなのか。


ぽたり。
傘から滴る雫に肩が濡れた。

気付けば岩泉は止まっていて、先に進もうと踏み出していた足を引っ込める。「悪ぃ」と呟くように謝った彼は、道路を挟んだ向かい側にあるコーヒーショップを指差した。そこは、晴れていたら行こうと思っていたお店だった。


「寄ってかねえのか」
「え…」
「コーヒー好きだろ?お前」


余韻を残して響く言葉に、一瞬、私の世界が音を忘れる。

こちらを見下ろしたまま首を傾ける岩泉は、特に動じる様子もなくきょとんとしているけれど、私の頭はプチパニックだ。
コーヒーが好きなことを伝えた覚えはないのに、どうして知っているのか。誰かの目に付くほど飲んでいるわけでもなく、小さい頃から好きだったわけでもない。本当に最近、ハマりだしただけなのに、なんで。


「行かねえのか?」


思考を遮るような低音に促される。

もちろん、寄ってくれるというなら行きたい。上手く震えてくれない喉をなんとかそう動かすと、軽く頷いた彼は、横断歩道を渡り始めた。

とくとくと鼓膜を覆う心臓の音が、やけに大きく聞こえる。豆を買って店を出てもやまないそれは、まるで壊れてしまったかのようだと紙袋を握る手に力が入った。


「ねえ、岩泉」
「ん?」
「私がコーヒー好きだって、何で知ってたの」


及川のように、ずっと一緒にいるわけじゃない。たまに話すくらいの接点しかない、ただの幼馴染み。岩泉にとってもそうだと思っていたのに、本当は違ったのか。

改札を抜けたところで、ようやく今までの発言を振り返ったらしい岩泉は、こちらを振り向くことなく「あー…」と唸った。そうして、短い髪に隠されることのない耳が、ほんの少し赤く染まった頃「まあ、ずっと見てたからな」と、爆弾を投下した。