まだ言わない



ころころ、と転がってきた消しゴム。角がとれて随分丸くなっているそれは、なめらかに床の上を跳ねて、私の足元へ着地した。

先生が黒板に向かっている内に、少しイスを引いて身を屈める。手のひらにおさまった丸いそれに見覚えはないものの、掠れて消えかかっている文字は、かろうじて読むことが出来た。


「岩泉くん」
「ん?」


授業が終わり、斜め前の席の彼を呼ぶ。
指を曲げ伸ばししながら軽く手招きをすれば、不思議そうに丸められる瞳。教科書をしまってから歩み寄ってきた彼は、私の机にある消しゴムを見て「あ」と声をあげた。


「悪ぃ、落ちてたのか?」
「さっき転がってきた」


気付かなかったわ、と笑った彼の手のひらへ落し物を返す。名前が書いてあって良かった。きっと、物を大事に使う人なんだろう。
だいたい一緒にいる及川くんに対しては辛辣なものだから、少々雑な性格なのかと思っていたことを反省する。


「ありがとな」
「どういたしまして」


岩泉くんと話したのは、思えばこの時が初めてだったかもしれない。

それから何度か、また転がってきた消しゴムを拾っては返し、その度に少しだけ言葉を交わした。
日を追う事に小さくなっていく消しゴムと岩泉くんが、私の思考を圧迫していったのは言うまでもない。一週間が過ぎた頃には、いつなくなってもおかしくない程のサイズになっていた。もう名前も読み取れないのに、落とし主が分かるというのは不思議な感覚だ。


「おはようみょうじ」
「おはよ」


いつの間にか挨拶をする仲になった岩泉くんは、いつも朝練があるからか、私より後に教室へ入ってくる。


「寝癖ついてんぞ」
「え、うそ」
「マジ」


とても恥ずかしい指摘にどこだどこだと探していれば、歯を覗かせていたずらっ子のように笑った彼の、節張った指が伸ばされる。

耳の後ろあたり。
丁度自分では見えない位置を梳いていくそれは、思ったよりもずっと優しく、どこかぎこちない。きっと慣れていないはずなのに、こうして触れてくれるのは、もしかして私だからなんだろうか。よく転がってくる消しゴムの真意はまだ掴めていないけれど、勿論たまたまかもしれないけれど、もし本当にそういうことなんだとしたら、それは。

とくとくと音を立てはじめた胸の内側が、とても穏やかに熱を孕む。


「……なおった?」
「おう」


素っ気ない返事と逸らされる視線は、照れ隠しだと知っている。この一週間で彼について分かったことは少なくない。
ほんのり赤いその首元が、私の勝手な自惚れではないのだと言ってくれているようで。


「ありがと。また見つけたら教えてね」
「ちゃんと朝に整えてこいよ」


呆れたように笑う岩泉くんに、頬が緩む。
新しい消しゴムをプレゼントするのは、もう少し先にしよう。