泣いたあの子の心臓



一年からずっと同じクラスで、けどあんま話したこともなくて、何となくお互い、名前と顔だけは知っている。いや、この間の席替えで隣になってからは少しだけ話したかもしれない。及川が絡みに行こうとしていたところを全力でやめさせた覚えがある。

取り敢えずただのクラスメート以上でも以下でもない。そんなみょうじが、泣いていた。
教室に忘れ物を取りに戻った、部活前のことだった。

ポツリポツリと机に落ちていく雫。
声をあげるでもなく、拭うこともせず。俯いている表情は見えない。

女って言うのはもっと感情的に泣くものだと思っていたが、彼女はとても静かで。
どうしたらって気持ちよりも先に、それが柄にもなく綺麗だと思ってしまった。


「ん」
「……?」
「まだ使ってねえから」
「……」


カバンから綺麗なタオルを一つ取り出して彼女の前に差し出す。
会釈なのか、それとも単に頷いただけなのか、小さく首を動かした彼女はおずおずと受け取って顔に押し当てた。

こういう時、及川ならどうするのだろうか。

気の利いた言葉の一つでも言えれば、あるいは慰めることも出来たかもしれないのに、と、自身の経験の無さを痛感する。大丈夫か、なんて聞くわけにもいかない。


どうしたものかと行き場のない手をポケットに突っ込んだ時、みょうじが顔を上げた。タオルから少し赤い目元が覗く。


「ありがとう」
「おう」
「洗って返すね」
「ん」


か細い声だった。
また、今にも泣き出してしまいそうな弱々しい音。


「ごめんね」
「?」
「さっき…タオル渡してくれた時、何も言えなくて」
「ああ。別に気にしてねえよ」


言うと、みょうじの目が緩く細められた。優しくてどこか寂しい、縋るような赤い瞳。

早く部活に行かなければと逸る気持ちとは裏腹に、どうしてかそんな彼女から目が離せなくて、イスを引く。机を挟んだ向かい側に腰を下ろせば、彼女の小柄さを実感した。
簡単に折れてしまいそうな白く細い腕。こんな小さな身体で一体何を堪えているのか。美人で小さくて気さくでいつも周りに誰かがいるみょうじが、なにも、一人で泣くことなんてないだろうのに。


「岩泉?」
「何があったか知らねえけど、あんま我慢すんなよ」
「……うん」
「俺、いない方がいいか?」
「ううん。いて、ほし…っ」


潤んだ瞳から次々と溢れ出る涙がタオルに吸い込まれていく。
みょうじはまた顔を伏せて、静かに泣き始めた。

どうしていいか、何をしてやればいいのか分からない俺がここにいたって何も出来ない。いない方がいいか、なんて聞いてしまったことに今更後悔する。いてほしいと言う彼女を放っておくことなんて出来そうもなかった。

及川に遅れる連絡をして、ただ静かに彼女を見守る。
喉が引き攣ったようにしゃくりあげた彼女は、不意に俺の名前を呼ぶ。


「どうした?」
「手、貸してもらっても、い…?」
「手?で良いのか?」


こくり、と頷いた彼女から、小さくて細い手が差し出される。戸惑いはしたものの、一度ズボンで手を拭いてからそれに重ねればキュッと握られて、心臓が揺らいだ。
思っていたよりもずっと冷たい温度と、柔らかい感触。初めて触れたみょうじの手。するりと絡められた指は腕なんかよりもずっと細くて、握り返す度に折ってしまわないかと内心ビビった。

十分くらいだろうか。

みょうじのしゃくり上げる小さな嗚咽と、その都度跳ねる華奢な肩が落ち着いていく。
やがて深く息を吐いて、また、目元だけをタオルから覗かせた。さっきよりも真っ赤な目に、自然と眉間に皺が寄るのが分かった。


「岩泉の手、あったかいね」
「お前が冷たすぎんだろ」
「そうかも。わたし冷え症だから」


にぎにぎ。まるで感触を楽しむかのように俺の手をいじるみょうじは、心なしか元気を取り戻したように見える。相変わらず顔はタオルに隠されていて目元でしか判断出来ないけれど、声はもう、震えていなかった。俺と繋いでいる手も、もう冷たくはない。


「ごめんね。部活あるのに」
「いや」
「ありがと」
「何もしてねえよ」
「タオル貸してくれた」
「普通だ」
「傍にいてくれて、手も繋いでくれる男の子なんてそういないと思うよ?」


クスクスと笑うみょうじと、みょうじから発せられた言葉によって再認識させられた行為に、思わず熱が上がる。それでも、そのあまり大きくない瞳から目が逸らせなかった。絡めたままの指も、振りほどけなかった。

途端にうるさくなる心臓の音がこの手から伝わってしまいそうで、恥ずかしくて、たぶん複雑な顔になっていたのだと思う。すっと手を引いたのは、みょうじの方だった。

小さく鼻を啜って立ち上がった彼女は、柔く俺の腕を引く。


「っみょうじ?」
「部活行ってきて。わたしも顔洗いに行く」


細められる目。タオルに隠された顔が笑っているのだと分かって、俺も口角を上げた。
机の中に置き忘れたプリントを取ってから一緒に教室を出て、みょうじは手洗い場、俺は部室に向かう。

「頑張って」

背中に投げ掛けられた、あまり高くない心地いい声が脳裏で木霊する。
すぐ隣に並んで歩いていたみょうじの小ささを思い返して、また心臓が鳴ったのは言うまでもない。
女子の中でも一際背が低いことは知っていたが、まさかあそこまでとは。俺の肘かちょい上辺りに頭があった。可愛くて焦った。

顔にこもった熱を逃がすように息を吐く。

部室のロッカーにプリントを突っ込んでから体育館に行くと、早速クソ及川に絡まれたがみょうじのことは言わなかった。