とある金曜日の午後十時
特有の関西訛り。なまえさん、と呼ばれて顔を向ける。私のことを名前にさん付けで呼ぶのは、この間新卒で入ってきた宮くんぐらい。
いそいそ寄ってきた彼に合わせて上げた首の角度が、それはそれは凄いことになる。入社式の時から思っていたけれど、イケメンな上に背が高い。なんて完璧な男の子なのか。あの時は『なまえさんって言わはるんですね』なんて人懐っこい笑顔が印象的だった。けれど今は違う。少し緊張した面持ちで、なんとなくそわそわしているように見える。
「どうしたの?」
「や、あの、嫌やったら全然構わんのですけど」
「うん」
「一回だけ、ほんま一回だけ、抱っこさせてもろてもええですか?」
「……うん?」
予想外の言葉が上手く飲み込めない。抱っこしたくなるような赤ん坊もペットも、ここにはいない。ということは、え、私?
首を傾げれば、わたわた慌てだす宮くん。いや怒ってないよ。怒ってはないんだけど、あまりにも突飛な申し出だったもんだからさ。直ぐに反応出来なくてごめんね。
「えっと、私を抱っこしたいの?」
「すんません……」
「何で謝るの。よく分からないけど良いよ」
幸い、残業組は私と宮くんだけ。誰かに見られる心配がないなら、断る理由も見当たらない。ちょっと恥ずかしいけれど、まあ、良い思い出になるかもしれなかった。
どう抱っこするのか分からなくて、とりあえず真っ直ぐ立ってみる。まるで玩具を与えられた子犬のように、きらりと瞳を輝かせた宮くんが可愛く見えたのも束の間。ふわりと体が宙に浮く。まさかのお姫様抱っこ。鼻先を掠めたのは、知らない香水のいい匂い。
凄い。イケメンで背が高くて親しみやすくて、更に力持ちでいい匂いまでするのか、最近の男の子は。なんだか思っていたよりもずっと恥ずかしい。
私を見下ろす宮くんの瞳が、まん丸に見開かれては瞬きを繰り返す。
「……普段、何食べとんすか」
「え……シチューとかお米とか」
「肉は?」
「あんまり好きじゃないかな」
「少食なんです?」
「まあそうだね。何で?」
「や、何食うとったらこんな軽なるんやろう思って」
「軽くないよ」
「いやいや、めっちゃ軽いっすわ」
よいしょ、と縦に抱き直され、反射的に宮くんの襟元を掴めば「こっち」なんて、首に腕を回すよう誘導された。さっきよりも近づいた距離。いい匂いが肺を占めていって、恥ずかしさがもっともっとせり上がって。いつ降ろしてくれるんだろうって逃げ出したくなりながらも「あかん。めっちゃ好みやわ」って小さな声にドキドキ。
「仕事、もうすぐ終わります?」
「うん。あとファイリングだけ」
「それ俺も手伝うんで、早よ終わらして飯行きません?」
あーあ、困ったなあ。何でこんな軽いお誘いにきゅんとするんだろう。こんなの、断れないじゃんね。
ドギマギしながら「良いよ」って頷く。なかなか離してくれなかった宮くんは心底ご満悦な様子で、その無邪気な笑顔に、私の胸は簡単に射抜かれてしまった。