ひとつの事象


ガタンッ。
大きな揺れに合わせ、傾いた人波。
吊革すら握れないほどの帰宅ラッシュに呑まれた私の体は、突っ張ることも出来ずに流され、誰かにぶつかった。


「す、すみませ、」
「チッ」


聞こえた舌打ちに体が強ばる。男の人だ。
目前には白いワイシャツと、ボタンが一つだけとめられた灰色のブレザー。

おそるおそる顔を上げると、見覚えのあるつり目が私を見下ろしていた。きっと、うちの高校で知らない人はいない、ヒーロー科の人。


「しっかり立てやザコ」
「ごめんなさい…」


名前を思い出そうとして、怒られたのでやめる。ぶつかったのは私の方だ。いくら押されたとはいえ、私が悪いことに変わりはない。早く退こう。

そう身じろいだけれど、再びやってきた人波に容赦はなく、今度は彼の胸へ体を預けたまま動けなくなってしまった。最早、握っているカバンの紐を離さないように頑張るだけで精いっぱいだ。声を出すのも辛い。もう二度とこの時間に乗るものかと決心する傍ら、彼への申し訳なさが募っていく。


ぎゅうぎゅう詰めの電車内。


息苦しさに耐えながら出来るだけ身を小さくしていると、頭上から溜息が降ってきた。きっと迷惑がられているに違いない。嫌な音を立て始める私の心臓は、けれど、制服越しに聞こえる至って穏やかな彼の鼓動に宥められ、だんだんと落ち着いていった。


そう言えば、くっついているどころか、殆ど体重を預けてしまっているけれど、彼の体が傾いたり不安定に揺れることは一切ない。ヒーロー科なだけあって鍛えているのか、それとも男の人っていうのはこんなものなのか。

今の状態に少し慣れてきた私の思考が動き始めた頃、不意に背中へ添えられた手に、肩が跳ねた。聞こえたのは本日二度目の舌打ち。おそらく彼の手だろう。
ぐ、と引き寄せられて更に密着した私の体は、彼が体をずらした分だけ同様にずれる。途端に舞い込んできたのは、ひんやりとした酸素。ちゃんと床に足が着いて、カバンを持つ手もしんどくない。


「ちょっとはマシんなったかよ」


さっきよりも近くで聞こえた無愛想な声に、ただ頷く。
死にそうな私を気遣ってくれたのだろうか。もう、背中に添えられている手に力は込められておらず、少しは動くようになった背を丸めて足元を見ると、人波と私を隔てるように彼の片足が割り込んでくれていた。

こんな優しさを向けられるのは初めてで、正直、どうしたらいいか分からない。顔が熱い。あんなに静かだった自分の心音が、今はハッキリと聞こえる。


「あ、りがと」
「別に」
「あの、さっきより凄い楽です」
「たりめぇだろ。誰がやってやったと思っとんだ」
「…誰でしょう…」
「あ"?」
「やっ、あの、名前知らなくて……」


怒気をはらんだ声色に慌てて言葉を紡ぐ。
身を屈めてくれているからか、彼が喉を震わせる度、耳にかかる吐息がくすぐったい。思わず肩を竦めると、少しの間を置いた彼は、無愛想な調子で教えてくれた。

爆豪勝己。

その名前が特別な響きを持って私を焦がすのは、もう少し先のお話。