あおげば尊し
皆には言わないでほしいと伝えたおかげで、卒業まで私の進学先を知る人は先生達だけに留まった。
どうせ仲のいい友達もいない。気が向いた時にだけ適当に話をして、上辺だけの笑顔を浮かべながら一緒にお昼ご飯を食べる女の子が数人いただけ。学校生活を送る上で支障が出ない程度の関係だったから、わざわざ進学先まで伝える必要はなかった。
高校に行っても頑張ってね。元気でね。
そんな当たり障りのない言葉を交わして手を振る。両親の元へ駆けていく彼女達は、とてもキラキラして見えた。
私も帰ろう、と足を動かしかけた時。
「オバサン待ってんのか」
聞こえたその声に、思わず体が固まった。
全身の血が一気に下がっていくような感覚。
今よりは他人行儀ではなかった小学生の時よりも随分低くなった声は、まだ聞き慣れない。
お構いなしに歩み寄ってきた彼の整った顔が目前に出てきてびっくりした。
「……ううん、一人」
やっとの思いで喉から絞り出した声は存外小さく、けれど、彼の耳にはちゃんと届いたらしい。驚いたように見開かれた赤い瞳に苦笑する。
そうだよね。娘の卒業式に親が来てないなんて、私くらいだよね。
「病院にいるから来れなくて」
「……調子悪ぃんか」
「大丈夫だよ。ちょっと入院してるだけだから」
大丈夫。彼に言ったはずのそれは、まるで自分に言い聞かせるように内側へとこだまする。
そう、大丈夫。
ちょっとしんどくなって、ちょっと療養しているだけだ。
昔から母は、私より体が弱かった。
彼の視線が刺さる。
分かっているけれど、顔は見れなかった。
もう随分と見上げなければいけない身長差になっていた。私の背は成長していないのに、彼はどんどん大人になっていく。
「ボタン、全部ないね」
「ああ。モブ女共がうるせえからくれてやった」
私も欲しかったなあ。
口をついてこぼれそうになった言葉は呑み込んだ。
言ったってむなしいだけ。
彼は、私のことなんて何とも思っていない。それでも、こうして話し掛けてきてくれたことに嬉しくなる。一人でいる私を気にしてくれたのかな、なんて、相変わらず単純な自分に苦笑した。
どうしてかな。こんなに普通に話せているのに、胸が苦しい。
「卒業おめでとう」
「おう」
「雄英すごいね。爆豪くんなら受かるね」
「はっ、たりめえだろ。すぐナンバーワンになってやらあ」
「うん。応援してる」
私の中では既にナンバーワンな彼は、きっと、もっとずっと遠くに行って、皆が憧れるヒーローになると思う。その内、こんな風に言葉を交わすことも出来なくなって、テレビから流れる機械越しの声しか聞けなくなるんだろう。
でも、どうかその時までは、私が最大限に近づける距離で見守らせてほしい。こんな風に話せなくてもいい。手を繋げなくてもいい。隣がいいだなんて贅沢は言わない。いい子になることは昔から得意だった。
話が途切れて、なんとなく気まずい空気が流れる。
もう残っている生徒は殆どいないようで「お前らも早く帰りなさい」と言う、写真ラッシュから解放されたのだろう先生の声は疲れていた。
帰んぞ、と歩き出した彼の背中に半歩遅れてついていく。爆豪くんのお母さんは、と聞くと「うっせえから先に帰らせたんだよ」と面倒くさそうに答えてくれた。
一緒に帰るのは小学校以来だ。
彼の両手はズボンのポケットに突っ込まれたままだけれど、繋ぐ機会はこれで最後かもしれないと指先が震える。
察しのいい彼なら、少し腕を掴んだだけで言葉にしなくても分かってくれるだろう。けれど、伸ばしかけた手は引っ込めた。振り払われることが、どうしようもなく怖かった。
私の家の前まで送ってくれた彼にお礼を告げる。
最後くらいはと見上げた赤い瞳はとても静かで、とくりと鳴った胸には気付かない振り。
「受験、頑張ってね」
いろんな感情を押し殺して微笑みかけると、少し眉を寄せた彼は言いづらそうに口角をぴくりと動かし、
「なまえも頑張れよ、雄英」
と言った。
まだ名前で呼んでくれてることとか、何で受験先を知ってるのとか、自分以外は誰も受けるなって教室で言っていたはずなのに私のことは応援してくれるのとか、もう頭の中が大パニックで何も言葉が出てこない私を置いて、彼はくるりと踵を返した。