おやすみルピナス


おかえり、と声がした。
散々デクと殴り合って、泣いて、オールマイトに宥められ、叱られた帰り。俺の部屋の前に、なまえはいた。

男子棟だとか、こんな時間に何やってんだとか、お前合鍵持ってんだろとか、言いたいことはそこそこ浮かんだが、言葉にはならなかった。穏やかに微笑む間抜けな顔を見て、気が抜けたのかもしれねえ。とろん、とした眠そうな目。女にしては低めの落ち着いた声が、俺の名前を呼ぶ。


「先にシャワー行く?」
「……おう」
「じゃあ待ってるね」
「中入れや」


まさか廊下で待つ気じゃねえだろうな、と鍵を開けると、なまえの顔がだらしなく緩んだ。別に部屋ぐらいいつでも勝手に入りゃいいのに、変なところで気を使う奴だ。
ほっせえ手にはちゃっかり救急箱が握られているあたり、俺が傷を作ってくることくらい想定の範囲内だったらしい。
舌を打つと、なまえは静かに笑った。

何も言わないままに着替えを持って浴場に向かう。久しぶりに喧嘩をしていくらかマシになったとは言え、気分は最悪だ。
痛む何かに、自然と眉間にシワが寄る。体が痛いのか、それとも皮膚の内っ側が痛いのか。よく分からねえ感覚をシャワーで流す。


部屋に戻ると「おかえり」。ひどく眠そうな声が俺を迎えた。もう日付はとうに跨いでいる。就寝が早いなまえなら、本来は眠っている時間だ。それでも眠らずに俺を待っていたのかと思うと、何だかむず痒い。


「ほら、座って」


冷たい手に手を引かれ、促されるままにベッドへ腰を下ろす。床に座ったなまえは手際良く傷の手当をし始めた。
嫌に沁みる消毒液に眉を顰めながらクーラーを入れてやれば、目敏く気付いたらしいなまえは「ありがとう」と、やはり眠そうに微笑んだ。


「……かつき」
「あ?説教なら聞かねえ」
「そうじゃなくて」


道具をしまった救急箱を端に寄せた細く白い腕が、ゆるりと俺の首に回される。そうして触れる、冷ややかな体温。男とは違った、柔らかくて折れそうな体。途端に香るのは、爽やかな甘い匂い。


「お疲れさま」


耳元で紡がれた穏やかな声に安堵を誘われ、ゆっくりと肩の力が抜けていく。

いつもそうだった。自分の中で何となく上手く着地しない物事があって気分が優れない時、なまえは意図も容易くそれをさらっていっては俺を甘やかす。別に頼んだわけでもねえのに、気付いたら傍にいて、俺が好きだと言う。


「……こんまま居るつもりかよ」
「居て欲しそうな顔してるもん」
「んな顔してねえわ」
「えー?」


くすくすと笑う耳触りの良い声に息を吐く。なまえが俺の部屋で寝るのも、別に初めてではない。どうせ明日には夜間外出プラス個性の無断使用でどの道怒られるのだろう。まあ、誰かが起こしに来る前に俺が起きればいい話だ。

華奢な腰に腕を回し、支えてやったまま寝転がる。驚いたように一瞬強ばったその肩は、俺が布団を掛けてやると脱力した。そうして大人しく身を寄せてくる。なまえに対して"可愛い"なんて、俺の頭は大概眠いらしい。

腕の中の心地良い温度を感じながら目を閉じれば、意識が落ちるほんの少し手前に「おやすみ」と聞こえたような気がした。