春泥を越えて、明けの岸まで
ねえ勝己。なまえが何か話をする時は、いつもこの五文字から始まる。ねえ勝己、そう言って俺の顔色を窺う。返事をするのか振り向くのか視線だけを寄越すのか、あるいはそっぽを向いたままなのか。俺の邪魔にならないよう、俺の邪魔をしないよう、自分の言いたいことよりもまず相手の反応を気にかける。なまえはそういう奴だった。
「ねえ勝己」
鬱陶しいと思ったことは今まで何度もある。んなモンいちいち気にすんじゃねえ、てめえのそういう態度が気に食わねえ、自分優先で自由にしてろ、俺は気ぃ遣われるほど他人じゃねえ。そんな言葉も腐るほど言ってきた。なまえがなまえの思うまま、少なくとも俺の前では自然体でいられるように。俺のことは信じられるように。
けれど俺の意思とは裏腹に、なまえはいつも困ったように笑って謝る。そうだね、ごめんね。そうして俯きがちに話すことを躊躇する。
だから次、もしまた同じようなことが起きたら今度はちゃんと伝えようと決めていた。
「なまえ」
「ん?」
俺の視界の真ん中で形のいい眉尻が下がる。
窓の向こう、まるでチャンネルが合わないテレビのようにザーザー雨が降っている。
「好きだ」
上手く喉が震えないのはきっと、纏わりついてくる湿気のせい。そう、絶対そうに違いねえ。脈打つ鼓動がやけに大きく近くで響く。雨の音が遠くに聴こえる。酸素が薄い。空気の密度が高くて呼吸が浅くなる。
でもそんなこと今はどうでもいい。ちゃんと伝えねえとダメだ。遠回しな言い方じゃなく俺はなまえに、今目の前にいるたった一人に、俺が俺であるために。
「てめーがどう思っていようと関係ねえ。ただ俺は、てめーが部屋に居んのも喋りかけてくんのも……声も、笑った顔も、クソ無防備に人のベッドで寝やがるとこなんかも全部いいと思ってる。から、嫌いになんざならねえしなれねえんだよ、今更」
臆病なのは傷付きやすいから。傷付きやすいのは、それだけ真面目で優しいから。不快にさせないよう人一倍他人の挙動を気にするのは、つまり人の痛みが分かるから。
もちろん俺は微塵も分からないし分かりたくもない。そもそもそんな程度で傷が付くメンタルに利点も美徳も感じない。ただ、なまえが元来持っている優しさは静かで心地がよかった。どれだけ腹が立っていても傍にいるだけで引いていくほど柔らかかった。なまえの瞳が嬉しそうに細まっていくその様が、どんな光景より好きだった。
「……ありがと」
ぽつり、暫くして呟くようになまえが言った。ありがとう、ありがとう、勝己、ありがとう。口角が引き攣り声が震え、フローリングにいくつも小さな水溜りを作りながら、それでもなまえは何度も何度も「ありがとう」と言った。