ワンダーワンダー



 眼下に車が一台止まる。ヘッドライト二つ分の光が少し停滞し、女の子を乗せて走っていった。今から夜景デートかな。この寒さも恋人となら、良いアクセントなのかもしれない。
 彗星みたいな電車の音が、風に乗って微かに届く。夜のにおいとブルーベリー味の煙を吸って送り出す。冬の空気は冷ややかで、他人行儀で優しくない。でも心地がいい。


「なまえ、タバコ、やめろっつったろ」


 振り向くと勝己が立っていた。手に持っていた電子タバコの機械本体が奪われて、くるり。節張った指と大きな手のひらに遊ばれる。


「電子タバコだよ」
「害はあんだろ」
「吸ってる人にだけね」
「一番ダメだクソが」


 言いつつ寄ってきた勝己は、電子タバコを返してくれた。私にではなく、私のカーディガンのポケットへ。代わりにホットココアの缶を一本持たされた。あたたかい。夜の冷気に浸されていた指が熱を帯びていく。まるで氷が溶けゆくよう、じわじわ高温が染みてくる。

 そういえば、アパートのはす向かいに自動販売機があったな。わざわざ買ってきてくれたのか。学生時代はどうしようもない暴君だった男が、まあずいぶんとかっこよくなったなあ。


「今日は夜勤?」
「俺を誰だと思っとんだ。昼も夜もねーわ」
「ふーん。コンビニ体制か」
「殺すぞ」


 トップヒーローをお手軽扱いたァいい度胸だな。そう口角を引き攣らせた勝己は、けれど穏やかそのものだった。ひと暴れした後の疲労感や纏う土埃、硝煙のにおい、乾いた空気、そういうものが今日はいない。街が平和な証拠だ。驕りでもなんでもなく、言葉通りトップヒーローである勝己が好きな女に会いに来て、一緒に月夜を眺めていられる世界はたぶん美しい。



 眼下をバイクが通り過ぎる。浮かねえ顔だな、勝己が言う。ひどく静かな声だった。まるで独り言のように。関心などなく、深掘りする気もさらさらないと示すような無機質な音。長い付き合いだからわかる。これは、私に対する気遣いだ。
 甘やかされずに育ったので、いつの間にか、苦手になってしまっていた。半端な優しさも、わかったような口振りも、極端な女性扱いも、男の人も、詮索も。それを勝己は知っている。

 そうでしょ、と言葉を返す。


「最近、自分のことがわからないの。べつに今に始まったことじゃないんだけど、気楽なような、寂しいような。穏やかなんだけど、胸がざわざわしてる」
「独りだからじゃねえんか」
「うん、そうかも」


 寂しくても、寂しいと言えない人生だった。いつも父は怒っていて、母はすべてを諦めていた。涙の枯れた壊れた家庭で我慢強さばかりが育ち、いつからか私は、独りを選ぶようになった。誰の顔色を窺うでもなく、他者からの評価に怯える必要もない。求められることも、背負うものも、応えなければいけないプレッシャーに圧されもしない。はっきり言おう。独りは楽だ。
 けれどそれも、もう十年。雄英高校を卒業してから早十年。そろそろ惰性で生きていられる現状に、飽きてきたのかもしれない。贅沢なことだ。かつて同級生だった彼らは、今も必死に街を守っているというのに。


「好きなんだけどなあ、独り」
「まあ、群れてやがる印象はねーな」
「落ち着かないからね、大人数って。意見も考え方もバラバラで疲れる」
「で、遠ざけたくせして恋しがってんか。贅沢女」
「いやほんとに」


 それ、さっき私も思ったよ。勝己はなかなか話のわかる奴だね。言うと彼は鼻で笑った。今更かよ、口ほどにものを言う視線が寄越される。


「貸せ、あけてやる」


 差し出された手のひらにホットココアの缶を乗せる。カポッ。気の抜けた音が鳴り、確か夏にも炭酸をあけてもらったなあと懐かしくなる。些細なシーンから記憶が呼び起こされていく。良くあることだ。なんせ勝己は春も夏も秋も冬も、私に会いにやって来る。春は紅茶を、夏はラムネを、秋はコーヒーを、冬はココアを、正月には飲めない甘酒を持って、会いに来る。


 ホットココアを喉へと通す。口をつけたその瞬間から広がる甘みが喉から心臓へ、身体の中心を流れていった。途端に寒さがすうっと消える。末端はまだ冷えている。けれど身体はあたたかい。勝己がいるから、あたたかい。



title alkalism