日曜日のくらげ




ファミレスから出て帰路につく。

ごめん、お米炊くの忘れちゃったから適当に食べといて。そう千円札を一枚置いたお母さんが、行ってきます、と慌ただしく仕事へ向かったのは今朝のこと。行ってらっしゃい、と見送りながら内心こっそり喜んだのは言うまでもない。たとえばこれが五百円玉だったなら、スーパーかコンビニ弁当で済ませなければいけなかった。バイトよりも部活派である私にとってお金はもちろん、めっきり機会がない外食も、貴重な贅沢の内のひとつ。青天のもとギラギラ眩しい日差しが地面を炙っていようと、蒸した熱気が肌に纏わりついてこようと、出掛けない理由には成りえなかった。

けれど諸々満たされた今、なんだかどんより足が重い。家ってこんなに遠かったっけ。こんなことなら歩いてくるんじゃなかったなあ。自転車にでも乗っていれば、もう少しくらい風を感じられたのに。いや、それにしたって蒸されるだけか。涼やかで快適だった店内からの、激しい落差が気分を丸ごとこそぎゆく。

追いうつようにたちまち曇った空がぽたぽた泣きだすまで、そう時間はかからなかった。シャワーのレバーを一気に下げたみたいな糸雨が、さあっと視界を烟らせる。地面が色濃く染めあがり、自分もとうに濡れねずみ。今更走ったところで遅く、雨避け目当てにコインパーキングの精算機へ歩いて向かう。さっきまであんなに晴れていたのに、全くもってついていない。どうやら私のラッキー運は、千円札で使い切ってしまったらしい。


「あれ、なまえ?」
「……?」
「やっぱり!」
「っ!?」


前言撤回。まだ余っていた。視線の先にぼんやり浮かぶピンク色。悠仁だ。お祖父ちゃんが亡くなって転校していった同級生。最後に好きだと告げたまま、返事は要らないと笑って消えた男の子。

駆け寄ってきた悠仁は真正面で立ち止まり「すっげえ偶然」と、ビニール傘を傾けた。雨の音が遠くなる。はるか頭上で弾けてこもり、悠仁の声が、やけに真っ直ぐきれいに届く。


「びしょびしょじゃん。傘ないの?」
「……家出る時は、晴れてたから」
「あー急に降ってきたもんな。タオル持ってたら良かったんだけど、ごめん」


額に張り付く私の髪を拭う指があたたかい。

―――悠仁だ。

ついさっき姿形と声で認識したことを、中学の頃から変わらない、子どもみたいな高体温で知覚する。


もう会えないと思っていた。家庭の事情か、携帯電話を持っていない人だったから連絡さえもとれなくて。寂しかったし、後悔した。あの時制止を振り切ってでも、私も好きって言えばよかった。そんなことばかり考えて、けれどこれじゃあ全然ダメだ、生きてる限り会えるんだって最近ようやく仕舞いこめた、その矢先。

雨が連れてきた彼は、私がよく知る眼差しを愛おしそうに細めてみせた。それがあんまり優しくて、たやすく鳴った心がぽたり。滴り落ちる。


「東京、行ったんじゃなかったの?」
「行ってるよ。けど、じいちゃんの墓参りでさ。やっぱお盆くらいは来てやんないとって」
「そう……」
「なまえは? どっか行くとこ?」
「ううん。帰るとこ」
「良かった」
「良かった?」
「そんまま出掛けるって言われたらどうしようかと思った」


悪戯に、けれど安堵の笑みを浮かべた悠仁は「行こ。家まで送る」と、濡れることも厭わず私の手をとった。まるで子どもを先導するよう。なんとも思っていないみたいな自然な動作。それでもほのかに伝わってくる緊張が、いまだ燻る互いの熱を教えてくれる。彼の乾いた手のひらが、温度も水気も焦りも躊躇も吸いとっていく。


「待って、悠仁」
「ん?」


今度は間違わない。後悔なんて、もうしない。好き。私も好き。あなたが好き。悠仁が好き。舌の上で何度も転がし咀嚼した、私なりの想いを胸に視線をあげる。

僅かに見開く榛色の向こう側。水滴だらけのビニール越しに、差しこむ光が煌めいた。


fin.
< 題材 / 夕立 >
2021合同夏企画【 盛夏の懺悔 】提出




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