幸福をつくるひと




さっきからペラペラペラペラ。無視してるっていうのに話し続けるナンパ男の無粋な手が、ついにとうとう伸びてきた。けれど触れはしなかった。正確にいえば、触れる前に阻止された。横から出てきた恵の手に。


「こいつに何か用か」


静かな声とは打って変わって、恵に掴まれた男の腕がミシミシ軋む。可哀想に。痛みで声も出ないらしい。こういう時、普段は部屋で読書に勤しむ寡黙な彼が元ヤンだったことを思い出す。噂でしか知らないけれど、さぞ強かったに違いない。見たかったなあ。強い恵ももちろんだけど、それよりブレザー姿が気になるところ。

ひと睨みもふた睨みも効かせた恵が腕を離すと、男は脱兎のごとく逃げてった。


「ありがと」
「ああ」
「恵も怒るんだね」
「当たり前だろ」


彼女だぞ。目が口ほどに物を言う。心外だ、と言わんばかりの眼差しは少々不服そうだった。これは謝るべきなのか。ほんのちょっと考える。私は謝罪よりも感謝の方が嬉しいけれど、恵はどっちなんだろう。……まあいいか、どっちでも。


『なまえ、おまえはおまえのままでいい』


いつだったか、恵に合わせるばかりの頃に注いでくれたぶっきらぼうな言葉が浮かび、私の背中を易々押した。

一歩踏み出し、腕を回す。平べったくて無骨な体は、ぎりぎりちゃんと抱き締められた。柔軟剤の落ち着く香りとともに酸素が鼻腔を抜ける。恵のにおいと外のにおい。プライベートで恵と会える、高揚感と優越感。


「ありがとう」


言うと恵は、さっきも聞いた、と些か動揺を宿した声でそっぽを向いた。


「さっきのは助けてくれたお礼だし」
「どう違うんだよ」
「今のは、怒ってくれてありがとう、だよ」


頭上を仰いで微笑みかける。悪戯に、ぎゅ、と腕の力を強める。

言葉か笑顔か、混ざる温度か。いったいどれが男心をくすぐったのかは分からない。けれど瞠目したのち逸れていった表情も、大きくなった鼓動も頭に乗った手も、小さくこぼされた吐息にさえ、溢れんばかりの好きがたくさん詰まっていた。



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