さいごの良心




「結婚? ああ、いいなって思うよ。ウエディングドレスとか海辺の式場で誓いのキスとか、憧れるよね。でもわたし、ひとりで生きていける部類の人間らしくてさ。しかも聞いて? 素敵だなあって思う人、みんな結婚していくの。甚爾くんもそうでしょ? え? 俺のこと好きだったのかって? いやだなあ。好きでもない男をほいほい家にあげないよ。これでも一途なんだから」


右手の爪を染め上げながら、なまえはふふん、と笑った。ずっと好きだったよ、禪院くんだった時からね。一瞥も寄越さないままそう告げられて、遠い昔を振り返る。

禪院から出てすぐの頃。路頭に迷っていた俺を捨て猫みたいに拾った女がなまえだった。帰る場所はたくさんあった方がいい、好きな時に好きなところへ行けるといい、そう言って世話を焼いた最初の女。


「結婚は憧れるけど、わたし、幸せにしてあげられる自信が全然ないの。ほら、美人じゃないし可愛くないし、お腹だってふにふにだし、特別料理が上手いわけでもないじゃない? あーいいのいいの。自覚してる。フォローしようとしてくれてありがと。で話は戻るんだけど、甚爾くんにはもっと素敵な人が似合うと思って言わなかったの。けどまさか、知らない女の名字になって、死人みたいな顔でふらふらしてるなんてねー。こんなことになるなら言っておけばよかったかも」


翳した右手の爪先へ息を吹きかけてネイルを乾かす横顔は、未だこちらを振り向かない。俺はずっと眺めているのに、たったの一度も振り向かない。思い出す。なまえは俺の目を見ない。人の目を見て話すことが殆どない。

再び爪へ同じ色を乗せながら「でもいいの」と、お構いなしに声は連なる。


「甚爾くんが結婚しようと思える人に出逢えたことは嬉しいの。だって、どんな話でも上手く流せちゃう甚爾くんが、ちゃんと向き合ったってことでしょ。それだけたくさんの愛情を持つ人だったってことでしょ。きっとわたしじゃダメだったから、それはほんとに嬉しいよ」


まるで独白。ひとり喋るばかりで何も求めない。相槌も、気の利いた言葉も意見も賛同も。ここに俺がいてもいなくても変わらない。全てに期待していない。猫撫で声で寄ってこない。

思い出す。そうだった。なまえがずっとそうだったから、俺はいつも自由でいられて楽だった。

もっと早く気付けていれば、そしたらなまえが俺のために費やした時間分、何か返せてやっていたかもしれねえのに。そう思うのは、大切ってやつを一度は知った俺だからか。たぶんなまえと共生していた頃の俺じゃダメだった。さっきなまえが、わたしじゃダメだった、と言っていたように。

それなら、今からでも遅くはないか。


塗料のにおいが鼻を突く。ローテーブルに並ぶ小瓶はどれも光沢で満ちていて、到底刺激物らしくない。パールカラーだよ。なまえが言う。変わらずこちらを見ない瞳を覗き込むと瞠目し、静かに笑んで伏せっていった。好きな男と数年振りに会っている、ってのに全く落ち着いている。もっと甘えりゃいいのにな。上手く使えよ、俺のこと。大切なモンが死んでガキ売って、一緒に逃げた女でさえどうでも良くなって、結局ここに帰ってきたんだからよ。


「結婚するか」
「……うん?」
「何つったっけ。ウエディングドレスと、海辺の式場?」
「え、わたしと?」
「いらねえのか?」
「いらなくないけど、わたし、甚爾くんのこと幸せに出来ないよ」
「そうでもねえよ。逆は自信ねえけど」


どうせもう金くらいしか残っていない。それでも、こんな俺がまだ好きだって言うなら持っていけ。少なからず俺は、あの日会った最初の女がなまえでよかったよ。寂しがり屋で臆病で、人の幸せばかり願う馬鹿で不器用で優しいなまえで、よかったよ。


title almaak
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