ここは奈落の花溜り




山田からの連絡は、いつも心臓に悪い。消太が怪我をした、消太が入院した、消太の意識が戻らない、消太が、消太が、消太が――……。恋人だけれど家族ではない私のもとに、公的機関から知らせが入ることはない。だから代わりに山田が教えてくれる。

消太が頼んでいるのか、山田がお節介を焼いているのか。確かめるほどのことじゃないし、正直どっちでもよかった。どっちにしろ、一般市民の私には手段がない。入院書類の保証人は雄英高校が請け負っている。仕事を切り上げ急いで駆けつけたところで、面会謝絶のひどい状態だったならひと目見ることさえ叶わない。こんなこと、本当は考えたくないけれど、死に目に会えないのはいやだ。だから、だからね、消太。


「結婚して」
「……」


ベッド用のテーブルへ、ひとり分の空白を埋めた婚姻届を寝かせる。目で追った消太はわかりやすく固まった。微動だにしない視線が瞬くことを思い出すまで、少し時間がかかる。僅かに開いた唇は、けれど音を発することなく噤まれた。何から言えばいいだろう。どんな言葉を用いれば、上手く話が出来るだろう。私を傷付けないために、消太の語彙が消太の中で試される。そんな動揺が、短い睫毛から滲む。

昔から不器用な人。心配させまいとなんにも言わない。私のために動いた結果は、だいたい裏目に出てしまう。でも私、だからこそ強くなれたよ。私が強くなるために必要なのは消太だった。これからもずっと、ずっと必要だよ。


「私ね。消太の名字と、配偶者って肩書きが欲しいの。それさえくれるなら、他になにもいらない」


結婚指輪も、結婚式も、新婚旅行も、どれひとつ望まない。一緒に住めなくたっていい。周囲に黙っていろって言うなら親にだって報告しない。ただファミレスで『アイザワ』って書いて幸福に浸りたい。たとえば続柄を記入する機会があった時、喜びを噛み締めながら『妻』って字を躍らせたい。『奥さん』って呼ばれたい。『相澤さん』って声がかかる度、すぐに振り向けなくてちょっと笑いたい。どうせ消太はいつまで経ってもヒーローだから職務を全うしたその最期、お疲れさま、よく頑張ったねって口付けられる立場でありたい。逆に、私を看取れる人は消太がいい。

……重いよね、知ってる。でもそんな私が好きでしょ。こんな私だから、傍にいてもいいんでしょ。

ねえ消太。あなたのそのカサついた指先ひとつで、私は幸せになれるよ。もっと強くもなれるし、世界中の誰よりずっと幸せなままでいられるよ。一般的じゃないかもしれないけど。あなたの描く『女の幸せ』とは、ずいぶん違うかもしれないけど。でも、それでいいよね。幸せのカタチなんて人それぞれだし。私が今日も明日も明後日も笑っていることが俺の幸せだって、嬉しいって、七回目の記念日に言ってくれたよね。仕事終わりの缶ビール一杯ひっかけながら。お酒に弱いあなたが好きだよ。


「……いいのか」
「いいよ」


ようやく私を映した消太の瞳を見つめ返す。いいよ。言葉数が少ないからこそ、いろんな意味を孕んで重い静かな声を真っ向から受け止める。いいよ。いいんだよ。あなたがいいんだよ。どんな素敵な男の人より。


「好きだよ、しょうた」


ぽたり。頬を伝ったぬるい痕が、無骨な指に拭われる。ぎしり。スプリングが軋んで、優しい声が近くなる。


「有難う。俺も好きだよ、なまえ」


title エナメル
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