水底には愛がある




「そろそろ一緒に住まへんか?」
「え……?」
「俺も生活落ち着いてきたし、歳とっても傍におるんはなまえがええ」
「……それ、今思ったの?」
「ちょっと前から考えとった。はい、ココア」
「ありがとう」


差し出されたマグカップを受け取った。甘い香りがふわりと広がる日常の一角で、信介の言葉を反芻する。一緒に住んで、歳をとっても傍にいる。なんて熱烈なプロポーズだろう。お高いディナーもスーツも指輪もないあたり、信介らしさが窺える。彼は場所や雰囲気にこだわらない。どこでいるかは関係なくて、誰といるか、に重点を置く人だった。

嬉しいと思う。愛しい信介に想われて、生涯傍に欲しいと言われ、嬉しくないわけがない。マグカップなんて放っぽって今すぐ飛びつき、よろしくお願いしますと言いたい。でも、そう出来ないだけの不安があった。


私の“可愛い”とか“良い女”は、限定的だ。デートの数時間を彩るメイク、お泊まりをする数日間だけ正す背。焼き魚を食べに行く日は事前にきれいな食べ方を調べ、あたかも育ちが良い女を装っているに過ぎない。元来持ち合わせている美点といえば、お箸の持ち方と礼儀正しさくらいのもの。とにかく“信介に見合う女"でいられる限度は一週間が良いところ。可愛い下着もそれくらいしか持っていない。どれだけ気を付けたとしても、一緒に暮らしていれば必ずボロが出る。ぐうたらな一面を見て幻滅されないか、案外しっかりしてへんなって思われないか、家事を完璧にこなせるか、理想の奥さんでいられるか、信介が隣に選び続けるような女でずっとこの先いられるか。はっきり言って、自信がない。

マグカップを握る指に力が入る。ああ、泣きそう。嬉しいのに、こんなに嬉しくて仕方がないのに、不安で胸が潰れそう。

なまえ、やさしい声が背に触れる。顔を上げれば穏やかな瞳が待っていて、ああ、泣きそう。


「返事は今やなくてええ。すぐ決められるもんでもないやろし、ゆっくり考えてくれたらええよ」
「違うの、迷ってるんじゃなくて、」
「分かっとる。分かっとるから急かんでええ。嬉しいありがとう、やなくて、自分の気持ち押し殺してまで俺とのこと考えてくれるなまえやから、ずっと一緒におりたいねん。どんな答えやっても待てるから、なんも心配せんとゆっくり考え」


信介の、落ち着いた言葉ひとつひとつが心に沁みる。目が熱い。視界が滲んで瞬きばかりを繰り返す。こぼれ落ちた涙の向こう、瞠目した信介は目元をゆるめて微笑んだ。


「俺の前で泣くん、初めてやな」
「っ……」
「誤算やけど一回見たかってん」


悪戯な声が、嬉しそう。私の頬を拭った指にマグカップをさらわれて、それから肩を抱き寄せられる。信介の体温はココアよりもあたたかい。鎖骨元へ埋めた鼻を小さくすする。

こんな私でいいのかな。みっともなく泣いてしまって、宥められても尚泣き止めない、お礼も謝罪もなんにも言えない、ほんとはすごくダメな私で、いいのかな。


「こういうおまえも可愛ええなあ」


のんびりとした低声は、愛おしさで出来ている。


title アリバイ
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