百年の猛毒




「なまえちゃんはさ、」
「おい」


及川くんの声をはじめが遮った。まだ何も言ってないじゃん。どうせめんどくせえ絡み方すんだろ。うわ偏見。及川くんの唇がつんと尖って、はじめの眉間にシワが寄る。なんだか学生に戻ったみたい。もっともあの頃、手を繋いで照れないはじめはいなかったけど。

橙色の街灯がぽつぽつ光る住宅街。アルゼンチンから帰国した及川くんを駅で迎え、三人揃って実家に向かう。及川くんは及川家へ、私とはじめは私の家へ顔を出し、最終的に岩泉家でご飯を食べる予定だ。三十歳を過ぎても仲が良いのは変わらない。

なまえちゃんはさ、及川くんが繰り返す。


「結婚するなら岩ちゃんだ、ってどのタイミングで決めたの?」
「おい、及川」
「いーじゃん。籍入れて三年だっけ? 新婚だったらまだ恥ずかしいかもしれないけど、もう時効でしょ」
「まあそうだね」
「ほらぁー」
「おまえ……言いづれえだろ」
「んー、でも、出来た旦那さんだし」


ね、ってはじめに微笑みかける。瞠目した猫目は「ならいいけどよ」と顔ごと逸れた。これはちょっと照れてるな。

ねえねえ早く、教えてよ。及川くんにせっつかれ、婚約前を振り返る。もちろんはじめとの思い出はたくさんあるし、ああこの人だって思った瞬間も一回や二回じゃないけれど。そうだなあ。一番印象的だったのは、二十五歳になるかならないかくらいかなあ。


「全然きれいな話じゃないけどいい?」
「いいよ。逆に気になる」
「そんな面白くはないけど、はじめの家族と私で温泉旅行に行ったことがあってね」


その日は確か、はじめの両親の結婚記念日だった。二人で行ってきたらとはじめが一泊プレゼントしたものの、大浴場タイプで男女別。お母さん一人じゃ寂しいわ、ってことでなまえちゃんもどうかと声がかかった。

朝早くから荷物を積み込み、いざ温泉がある山中へ。運転ははじめのお父さんで助手席には奥さん。後部座席に私とはじめ。

行きは良かった。学生時から岩泉家には大変お世話になっていたし、海外で暮らす彼が隣にいるってだけで自然と心は踊ってた。ただ、緊張がほぐれた帰りの下り坂、くねくね山道。これがダメだった。つまり、早い話が車に酔った。

道幅が狭く一旦停車が出来そうにない。不快感と戦いながら、窓から顔を出そうか悩む。はじめ、きもちわるい。その二言を発した正に三秒後、残念ながら動く間もなく限界到来。車を汚すくらいなら、せめて自分の服を犠牲にしよう。辛うじて働いた思考に従い、少々上向きに嘔吐した。ら、驚くことに、気付いたはじめが慌てて片手で受けてくれた。大丈夫か。ゴミ袋とウェットティッシュを引き寄せて、ひとまず全部吐くようにって、自分の手が汚れたことより私の心配。


「ああ、あったな、そんなこと」
「やだ、忘れてたんならもう一回忘れて。今すぐ」
「なんでだよ」
「私の人生最大の汚点」
「そんなことねえだろ」
「ある。すごいある」
「ねーよ」


軽やかに笑うはじめの肩を、及川くんがにやにや小突く。


「良かったねえ岩ちゃん、引かれなくて」
「あ?」
「だって普通しないよ? たとえ彼女相手でも」
「そう。や、私は引かないけど、そうなの。しかも咄嗟に」


そりゃ、幼い子どもがいる人だったら日常茶飯事だろうし抵抗も少ないと思う。でも当時のはじめはまだ独身。カレカノ状態で躊躇無し。


「あの時一番思ったの。この人がいいな、って」


ちなみにその後、山道をおりた先のコンビニで手洗いうがいと着替えを済ませて帰宅した。車内は無事。はじめのおかげで私の服もほぼ無傷。楽しい雰囲気を崩してしまった罪悪感、迷惑をかけた申し訳なさ、そういう負の感情もフォローされた。血とか汗と変わんねえ、って。


「ね? きれいじゃないし面白くもないでしょ」


また照れてるはじめの指で遊びつつ、及川くんを仰ぎ見る。下からのアングルでも端整なその口元は、満足そうに微笑んだ。そうだけど、良い話だね。どうやら相棒の嫁審査は合格だったらしい。


title オーロラ片
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