カフカの変身をアイマスク代わりにして、彼女は静かに寝息を立てていた。毒虫になる悪夢を見そうで、僕は絶対にあんな真似はしたくない。
第一、自分の部屋があるのに、なんだって僕の部屋まで来て寝ているんだこのひとは。
「なまえさん」
駄目元で声をかけるが、やはり駄目だった。
うんともすんとも言わない。
「なまえさんってば」
今度は肩を掴んで揺さぶってみる。
身じろぎをした拍子に、変身が彼女の顔からずり落ちた。でも目を覚まさない。
僕は途方にくれた。多分そろそろ、書類の処理に困ったギガ様が側近であるなまえさんを探し始めるだろう。
こんなところが見つかったらやばいということくらい、僕にだってわかる。
「なまえさん!」
三度目の正直とばかりに肩を掴んで揺さぶったら、彼女は小さな唸り声をあげる。それから、まだ半分夢の中にいるような目で、僕をじっと見つめたあと、右の手を顔の前に翳した。瞬きを何度か繰り返した彼女は、ふっと笑う。口の形が非対称になるような笑い方で、どこか自嘲のようにも見えなくもない。
「よかった。毒虫になっていなくて」
一体なにを言い出すのかと思ったら、彼女の口から出たのはそんなくだらない冗談で。
僕は、なまえさんが目を覚ましてくれて安心したのと、ギガ様が捜しにくるかもしれない不安とで、少し語気が荒くなる。
「そんな冗談はいいですから」
「でもさ、どうする? もしも私が突然、ああいうことになったら」
「想像したくないですけど、たぶんあの家族と同じことをします」
僕が早口でそう言ったら、彼女はきれいな色の目を見開いて、よかった、と微笑んだ。
「姿は変わっても、なまえさんはなまえさんです。とか言われるのかと思ったよ」
「今時、どこにそんな偽善者がいます?」
「だよね。私もそうする」
床にあぐらをかいて座っていたなまえさんは、そう言って笑ったあと、組んでいた足を解いて立ち上がった。それから、さっき身体を起こした拍子に顔から落ちた変身を、前屈の要領で拾い上げる。
本の表紙を手で軽く払うと、彼女はそれをじっと見つめて、私はさっさと殺してほしいな、と呟いた。
「憶えておきます」
「約束ね」
僕の言葉に微笑んだ彼女は、僕に向かって小指を差し出した。なんの躊躇いもなく当然のように差し出されたから、今までの焦りはどこに消えてしまったのか、思わず笑ってしまう。僕は頷いて、彼女の細い指に小指を絡めた。
「僕が同じ状況になったら、なまえさんお願いしますね」
そう言ったら、彼女は目を見開いたあと、すぐに屈託なく笑う。
「任せておいて」
彼女が手にした表紙のカフカが、僕の方を睨んでいた。