※「置いていかれた北で子守唄を囁く」後日談
誰かが床に人体模型でも置き去りにしたかと思ったそれは、口から血を垂れ流したユーリ学部長だった。いつも傍にいるはずのエイダさんは見当たらない。このままにしておくのはさすがに気が引けるので、肩を掴んで揺さぶってみる。私が何度かそれをしたあと、学部長は閉じていた目をパッと見開いて、緩慢な動作で上体を起こす。それから私をじっと見つめたあと、ゆっくりと首を傾げた。
「なまえくん、だったよねえ? 北方くんの幼馴染みの」
名前を呼ばれたことに少なからず驚いた私は、緊張からか頷くことしかできない。話したこともなかったから、学部長が私の名前を知っているなんて思わなかった。もしかしたら、秀継の幼馴染みだから憶えていたのかも知れない。そう考えたら、学部長にきらきらした笑顔を向ける秀継を思い出してしまって、目頭が熱くなって、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。嫉妬なんて馬鹿馬鹿しい。そう自分に言い聞かせた。
そんな私の葛藤なんて微塵も知らないはずの学部長は、その細くて折れてしまいそうな指で頭を掻いて、困ったような微笑を浮かべた。
「なんか悪いねえ、我輩が北方くんとっちゃってるみたいで」
まさかそんな言葉をかけられると思っていなかった私は、驚いたのと、思っていたことを見透かされた恥ずかしさから、早口で否定の言葉を並べ立てる。
「いいえ。大丈夫ですから、お気になさらず」
真っ赤な嘘だった。ずきり。心臓が痛い。
堪えていた涙が溢れそうになって、慌てて下を向いた。
学部長が、俯いた私をじっと見ているのをなんとなく感じる。彼はぽつりと呟いた。
「嘘は良くないと思うなあ」
私がびっくりして顔を上げると、彼はなにかを思い出したように人差し指を上に向けた。
「ほら、泥棒の始まりって言うしね」
どう返したものかと思った私は、はあ、とだけ返事をする。その直後、後ろから学部長を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、エイダさんが少し離れた場所に立っている。
「今度は2人で一緒においで。その方が彼、喜ぶでしょ」
それだけ言うと、ユーリ学部長はふらふらとおぼつかない足取りで、エイダさんと一緒に歩いていってしまった。長い廊下に取り残された私の頭には、最後の学部長の言葉がぐるぐるとまわっている。