
リュナが祖国から亡命して一年が経ち、後に「ファルヴァーネ王国争乱」と名付けられる一連の争いは沈静化を見せ始めていた。とはいえ、王ジェレミアの乱心──とリュナには思えた──により国の政は滞り、また王国の軍力はその殆どを逃げ出したリュナ・ファノヴァールの捜索に当てているため、ファルヴァーネ王国は現在機能しておらず、目に見えて頽廃している。
リュナとて、そのような国の現状を目の当たりにして何も思わなかったわけではない。もしかすると、自分が王の前に現れでもすれば、軍が己の捜索に力を使うことはなくなり、結果として民の安寧に繋がるのでは──。そう考えたことは何度だってあった。
顔を隠して生きたリュナを王女と気づかず、王家への不信と不満とを零す民も見てきた。そのような民を見て何も思わぬことが出来ないほどに、リュナはただの人間でしかない。
王女という肩書きはもはや意味を為していないようなものだが、それがあったところで何が出来るというわけでもないことを、リュナは身をもって知ることになったのである。
『そりゃあそうだ、肩書きだけで世界が変えられるなら、誰だって好き勝手に好きな肩書を名乗る』
リュナの脳に男の声が届く。あたりを見渡しても誰かがいるわけではなく、ああまた、とリュナは小さくため息をついた。
その声の主は、己をリューガと名乗る。リュナの小さな頃から、リュナにだけ聞こえる自然現象のようなものだ。幻聴かと訝しんだこともあった。
いつから聞こえだしたのかは、正確には覚えていない。リュナは幼少期の一部の記憶が曖昧で、恐らくだがその時期に聞こえ始めるようになったのだろう、とリュナは推測する。
姿を見たことはない。その声はリュナの内側に存在し、実体を持たないのだという。その言葉を全て信じているわけではないし、なんらかの念話魔法を使っているのだろうかと思ったこともあったが、結局そのトリックを見破るには至っていないのだった。
そもそも、彼がリュナの害になることを言ったことは無く、故に放っておいても問題ない、と判断しているためそのままにしているというだけではあるのだが。
もう一度辺りを見る。やはり周りに人はいない。しばらく待てばラウロが見張りから戻ってくるかもしれないが、それだけだ。
「……肩書きの意味の無さは嫌という程理解してるよ。それでもその名を欲しがるヒトがいるのは残念ね」
『肩書きが力になることはそんなにねえが、力が肩書きになることはよくあるんだよ』
「そうして得た肩書きで、何をしようと?」
『さあ。人間サマの考えることはわからねえなあ』
「……そ……」
まともな答えなどもとより期待はしていないが、妙に達観した返答にリュナは言葉を詰まらせた。
人間サマがわからないというのなら、人間たるリュナの内より出ずるこの言葉の主は一体なんだというのか。リュナの妄想によって生まれる幻聴であれば、それは人間の意思に他ならず、念話魔法で届けられる声だとしても、それを行う人間がいるはずだ。
結局彼はなんなのだろう。そんな思いを胸の内に沈めれば、彼は黙りこんだ。答える気がないらしい。自分の心のうちまで知られているようで居心地が悪い。
ふと人の気配を感じて顔を上げる。見ると、ラウロがこちらに向かってきているのが目に入った。
「リュナ様、船酔いなどは……」
「平気、ありがとう。ラウロの方は変わりなく?」
「はい、滞りなく。じきにリキアに着くとのことですから、出立の準備を」
「リキア……」
「失礼。説明をしていませんでしたね」
こほん、とひとつ咳ばらいを落とす。その仕草ひとつをとっても様になるもので、ここが例えば学校でラウロが先生だとしたら、女生徒たちから黄色い声が上がっていただろうな、と思わせるほどには自然だった。残念ながらここは船上で、女はリュナを含めて数人しかいないのだが。そのリュナも、小さなころから彼と共にいるせいで、彼に対してそのような行動を取ることは絶対にないといってもいいだろう。
そんなリュナの心の内をラウロは知るはずもなく、粛々と話を進める。
「リキア同盟、というのはエレブ大陸の中央やや南よりに存在する同盟国家のひとつです。我々の祖国──ファルヴァーネとは違い絶対王政の国家ではなく、君主を戴いてはいません。リキアというのは、その同盟の中の一諸侯領に当たります」
「同盟国……? セヴランのところの……」
「はい。ファルヴァーネと協力関係を結んでいた《風の国》も同盟国家ではありますが、あちらはセヴラン様が実質的な統治を行っております。故に、《風の国》とリキア同盟とは別のものである、とお考え下さい」
「…………」
そのような国家が存在するとは考えてもいなかった。それはリュナが王族であったのだから、当然だろう。自分がおらず、父がおらず、そうして出来上がる国家の姿など考えたこともなかった。自分は存在し、父は存在し、それが当たり前の世界で生きてきたからだ。
元々祖国ファルヴァーネがそういう国であったならば、このようなことにはなっていなかったのだろうか。答えの出ない問いを自分に投げかけ、しかし耳はラウロの方へ傾けたままにしておく。
「各地域を治める侯爵家が全て対等な立場で、有事の際には諸侯が手を取りそれを解決する……という条約の元成り立っているらしいです」
「それは……、出し抜こうとする人たちは現れないの?」
「当然現れますとも。それが原因で紛争が起こることも珍しくないとか」
「……一長一短ね」
「正しく」
それで争いが起こらなければ、それをリュナの理想と定めるつもりだった。しかし、それはどうやら違うらしい。どういう政治体制であっても、やはり争いは起こってしまう。どうしてという疑問も、愚かだと嘆く思考も意味はなさない。それはどうしようもなく現実で、実際の出来事なのだから。
誰だって争いごとは嫌いなはずなのにね──、そう呟こうとしたリュナは、辺りの騒がしさに気がついて口を閉じた。
「……何?」
「どうかしたのでしょうか」
騒がしい、と感じたのは自分の錯覚ではなかったらしい。ラウロもその騒がしさを認め、顔をあたりへと向けた。船はいつの間にか止まっていたが、下船の支持は出ていない。何故、とラウロを見上げたが、ラウロも把握していないといった顔だ。
ラウロとリュナのその様子に気づいたらしい船員がこちらに歩み寄ってきた。その表情には困惑の色が浮かんでいる。
「すみませんお客さん、ちょっと緊急事態が……」
「何か?」
「実は下船位置にボルム山の山賊どもが陣取っておりまして……やれ物資を渡せだ、金目のものを置いていけだと騒がしく……」
「ふむ」
普段もその山賊には悩まされているが今日は一段とひどいらしい。物資を置いていくまでその場を動く気配はなく、このままでは下船もできない。この場で下りたところで彼らにいいようにされて終わる、というのが船員の話だった。
話を聞き届けたラウロが親指を唇に当てる。その表情は怒りを抑えているようにも見えた。
「……困りましたね、リキアに向かうにはここで下船するのが一番いいのですが」
「別の場所で降りるのは……」
「船はともかく、我々の物資と財を考えるとここで下りたいのですよ。……それに、船の方も。動力の余裕があるとはいえ、下ろすべき物資を下ろさないなど、予定を狂わせるのは良いこととは言えません」
「……よね」
予想していなかったわけではないが、改めて言われると溜息を吐き出してしまう。自分たちが裕福な旅をしているとは全く思っていないが、やはりそれほどまでに余裕がない状況だということを認識すると憂鬱にもなるだろう。それでも、リュナに極力苦労をかけさせまいとするラウロのお陰で苦しい思いをしたことはさほどないが。
……ならばいい加減に、リュナも尽力するべきなのだろう。この船に乗せてくれた船員達に礼をするために。そして何よりも、自分に今まで付き添ってくれているラウロのために。
「……山賊がいなくなれば……、下りても良いと?」
「え? まあ、はい」
「ならば、私たちが彼らを退ければ下りることは叶いますよね」
「リュナ様!? いったい何を仰るかと思えば!」
突拍子もないことを言っている自覚はある。しかし、それがリュナにとっては最善に思えた。それに、一番単純明快な方法だろう。
山賊がいて下りられないのであれば、山賊を退去させてしまえばいい。それが危ないことなのはわかっているが、だからと言ってこのままここに留まっていても事態は好転しないし、下手をすれば船に損傷を与えられる可能性もある。
だとすれば、これが最善だ。
「ああいう人たちは、一度痛い目を見ないとわからないと思うの」
「言いたいことはわかりますが、自分がどういうご身分かわかって……」
「民を見捨てた私に、そんなもの」
自嘲するように笑って言えば、ラウロは言葉を詰まらせた。こういう反応が返ってくるとわかっていて言ったのだから、きっとリュナは途轍もなくずるいのだろう。
だが、その考えを改める気はない。荒れる国を見、苦しむ民を見、それでもなお逃げることを選んだリュナは民を見捨てたのだといわれても仕方がない。そうするしかなかったとはいえ、民からすれば──そしてリュナからすれば、それは民を見捨てたことに変わりはないのだ。
「……どちらにせよ下りなきゃいけないなら、私たちが通るついでに……困ってる人を助けた方が、きっと有意義」
「──……あ゛ぁっ、どうしてあなたはそうも人がいい……!」
「だから、あなたが私の臣下になってくれた」
「そうですが!」
なんだかんだと言って、ラウロはリュナに甘い。少しリュナが我儘を押せばそれを飲み込んでしまう。その言動全てがリュナのためというのはリュナも理解しているし、我儘を聞いてくれるのもそういうことだとはわかっている。
だからこそ、我儘は控えめにしないとなと考えつつも──どうしてもここは譲りたくなかった。守られるということを忌避しているわけではない。だが、守ってもらうことによってラウロに負担ばかりをかけてしまうのが我慢ならなかった。直接そういっても彼は自ら苦労を背負ってしまうから、我儘を言うしかない。
それに、リュナも戦えないわけではない。祖国にいたころから訓練を欠かしたことはないし、この旅の最中それを振るうことだってしてきた。危ないのは承知の上で、戦いは嫌いだと思いながらも。そうすることで解決することがあるのならば、極力頼りたくはないが、理解をさせる目的で行使することも時には必要なのだろう。
ラウロが折れて、溜息を吐き出しながら、なるべく俺の後ろにいてくださいね、とつぶやいた。
どう行動しても彼の苦労は増えてしまうのだな、と苦笑いを浮かべたその時、リュナらの背後からひとつの人影が現れた。ローブに着いたフードを深くかぶっているせいで顔は良く見えないが、その奥から除く翡翠色の目がやけに印象に残る。
「……お前たち。アレを、排するのか」
「……? そのつもり、ですけど……」
「……ならば、手を貸そう。……アンタにくたばられると、俺が困る」
「失礼ですが、あなたは──」
ラウロがフードの男に問いを投げかけた、一瞬のことだった。
彼の手の中でいつの間にか形を成していた魔力の塊が風となって──。
『──死ぬなよ、リュナ』BACK