「シェイバーッ!」
「ッ……!?」


 船体が揺れるほどの風が吹いた。それが目の前のローブの男が魔法で起こしたものだということは明白で、咄嗟に腕で体を庇う。
 その風がリュナの身体を傷つけることはなかったが、立っているのがやっとの風でリュナの動きが封じられてしまう。対して、ローブの男は──操っている張本人だから当然だが──自由にその風の中を歩いている。とんとんと足の音を立てながら、リュナの横を通って、船の下を見下ろした。


「……船を揺らしたくらいで怯むような者どもでもなかった、か」
「……貴方、いったい何……」
「戦わずに済むのならばそれがよい、と思っただけだ」


 それは確かに、リュナの望むところでもある。力の行使で場を収めたところで、一時しのぎにしかならない。根本的解決は望めないし、怪我人は十中八九出てしまう。
 故にこの男は己の実力を誇示し、その実力を「敵わないもの」と認めてもらうことで退いてもらいたかった、ということなのだろう。その目論見は失敗に終わってしまったが。


「……、武の心得はあるな、リュナ姫」
「剣術と魔法でよければ──待って、あたし名乗ってないのに……」
「……あんたに危害を加えるつもりはないし、ここにいることを大陸に持ち帰ったりもしない。俺もここで下船の予定だ」
「それは……」


 確かにここで下船するのならば、自分がここにいるちう情報は即座には大陸には伝わらないだろう。しかしその後彼が大陸に戻らないとも限らないし、彼が大陸に持ち帰らないという確証もない。
 故に、彼の言葉全てを信じるのは憚られた。名乗ってもいないのに、自分が姫であると見抜かれたことも含め、怪しいとしか思えなかったからだ。
 それはリュナだけではなく、ラウロも同じ思いだったのらしい。ラウロはリュナの前に立った。片手を剣の柄にかけながら。


「せめて名乗れよ、魔導士。この方を誰かと分かっていながら、不遜が過ぎるぞ」
「……剣に手をかけるな。俺とやりあったところで貴殿に得は微塵もないだろう」
「貴様……」
「……アーシュ。……《風の国》の、しがない魔導士だ」


 風の国。そう聞いてリュナの心がそちらに向いた。
 その国は、ファルヴァーネ王国にとってはそう遠くない国の名前だからだ。

 ファルヴァーネの同盟国、《風の国 エルタニア》。数多ある領地の領主が集い、同盟を結ぶことによって成り立っている国である。その形態は国というよりも、複数の地域の集まりといった方が近いのだろう。
 その頂点に立ち、実質的に国王という立場に位置しエルタニアを纏めているのは、エルティカという一族だった。そしてそのエルティカは、ファルヴァーネを友好国と認めている。
 リュナもエルティカに招待されてエルタニアに赴いたことがあり、そこでエルティカの一族の子──すなわち当時の次期国王である、セヴラン=フォン=エルティカと会ったこともあった。
 セヴランとはその時から良い付き合いがあり、亡命する直前まではよく連絡も取っていた。幼馴染、というものだったのだろう。

 今、セヴランはどうしているのだろうか。ファルヴァーネの狂乱に、自身の失踪に、何か思ってくれているのだろうか──。
 そんな考えが頭を掠め、表情が歪む。それに気づいたらしいアーシュが、じっとこちらを見ている。そして、一拍遅れて口を開いた。


「……セヴラン、……様は。……あんたを、主眼に置いている。……俺は、セヴラン様の不利になるようなことはしない。……故に、あんたを傷つけるようなことも、しない」
「……セヴラン……」
「……信じろ、とは言わんとも。だが、アレを退けたい、という意思は……俺もあんたも、一緒だろう」


 男──アーシュが向けた視線の先、船の下には先ほどの風魔法によって傷つき、狼狽えながらも船に向かって怒鳴っている山賊たちの姿がある。
 それは、と口ごもる。確かにその通りだ。山賊を退けなければ船から降りることはできないだろうし、ここまで乗せてくれた船員たちも迷惑に思っていることだろう。
 無言で、しかししっかりと頷く。その意思はアーシュにも伝わったようで、彼は仏頂面に笑みを浮かべた。


「ならば、良い。……そろそろ相手してやらねばな。……奴らも、痺れを切らす頃だろう」


 そういって、彼は船の淵に手をかけた。何をするのだろうか、とリュナとラウロが彼を見つめる。
 そして。


「──風よ」
「あっ!?」


 淵を乗り越え、落ちていった。船と地面の間には相当の高さがある。この距離から落ちれば、大事には至らずとも怪我をするだろう。しかし、彼はそれを意に介さず飛び降り、落ちた。
 しかし、その身が地面に落ちることはなかった。風が吹き、アーシュの足元に集う。まるでその風を足場にするかのように、アーシュは空中に──立った。


「……そこの者たちよ。……今退けば、我らは貴殿らに手を出さぬ。退かぬというのならば、俺は容赦せん」
「なんだ、てめぇ……さっきの風もてめぇの仕業か!?」
「……だとしたら、なんだ?」


 底冷えするアーシュの声が辺りに響く。先ほどまでリュナやラウロに対して向けていた言葉とはまったく温度の違うものだ。
 山賊たちもその異様な冷たさに気が付いたのだろう。一瞬口ごもるような仕草を見せる。しかしここまで来てしまっては後には退けないのか、威勢よく吠えた。


「い、痛い目を……見たいようだなァ!!」
「……は。痛い目を見たいのはどちらだというのか」


 アーシュはその場で彼らを見下ろし嘲る。余裕綽々という様子のアーシュに、ついに山賊の一人が痺れを切らした。
 パシュッ、と風を切る音がする。そちらに目を向けると、アーシュに向かって一本の矢が放たれているのがわかる。
 リュナが声をあげるよりも早く、アーシュにその先が突き刺さる。かと、思われたが。


「……え?」


 その直前、矢が急に落ちる。まるで何かに叩かれたかのように、それは地面に無力な様を晒した。
 何が起こったのか。それをこの場にいる誰もが理解できずにいた。誰かの理解が及ぶその前に、アーシュが自ら口を開く。


「俺に傷をつけたいのであれば、光神竜の加護でも授かってくるんだな」
「……!」
「……ラウロ?」


 何かラウロが動きを見せたような気がして、リュナの視線がラウロへと向いた。ぐっと深くなった眉間の皺は、恐らく気のせいではないのだろう。
 しかしどうかした、と 聞く前に眉間の皺は消えていく。次の瞬間には、いつもの騎士然とした表情のラウロがそこにいた。どうした、などと聞ける雰囲気ではなくなって、リュナは口を閉じた。


「何度やっても同じこと。……貴殿らは、俺に傷をつけられんとわかって尚、俺に刃を向ける愚か者か?」
「ぐ……っ」


 尻込みする山賊たちをアーシュは見下ろし続ける。一般人が相手であれば、それだけで体が竦みそうになるほどの気迫だ。
 しかし山賊たちは退かない。最早意地の張り合いなのだろう。これ以上やっても彼らに利がないことくらい、彼らが一番わかっているはずなのだが。
 どうしよう、あたしも何かするべきなのだろうか。そんな考えがリュナの思考に浮かびあがって、しかしそれは聞こえてきた新たな声にかき消されることになる。


「──お前たち! そこで何をしている!」
「……!?」


 この場に似合わぬ、凛とした少年の声がした。少なくとも、山賊のものではないように思える。それほど品を備えていて、よく通る声だ。
 はっと視線を移す。声の主はすぐに見つかった。山賊の向こう側、陸地の方。燃えるような赤い髪がそこにいる。
 リュナには見覚えのないその顔だったが、山賊たちは違ったらしい。彼のことを発見した山賊の一部が、目に見えて狼狽え始めた。


「て、てめぇは……!」
「最近大人しくなった、と父上から聞いていたけど……」


 幾人かの人間を連れて前を歩く少年。歳はリュナとそう変わらないように見えるが、その立ち振る舞いは一般人のそれに見えない。
 ちらとアーシュを見ると、相変わらず警戒は解いていないようだったが、赤髪の少年に対し敵意はないように見える。それは彼が敵ではないことの証左なのか、或いは敵の敵は味方のような感覚なのか。リュナにその判断はつかなかった。


「まさか船に悪事を働いていたなんて。……それ以上その船や彼らに手を出すようなら、僕は容赦しない」
「な、なんだこの餓鬼……!」
「おいやめとけ! そいつフェレんとこの……」


 フェレ。聞いたような名詞に首を傾げる。どこで聞いたのだろう、先ほどのラウロの話だっただろうか。
 今この場でそういうことを聞いてしまうのは聊か空気が読めていないんだろうか、と口を閉じた。閉じたが、やはり気にはなってしまうもので、その正体を頭の中で探ってしまう。
 そうこうしているうちに、山賊たちは何を思ったのか退散していった。あまりの呆気なさに今までの時間はなんだったのだろうかと思うと同時に、先に行ったラウロへの熱弁が恥ずかしくなってくる。


「あ、あのラウロ……」
「……とりあえず下に降りましょう。彼にお礼を言わなければ」
「う、うん」


 後々取りに来る時間くらいはあるだろう、と踏んで最低限の荷物のみを持って下船する。船を降りる間際にアーシュがいたところを見たが、アーシュの姿は残っていなかった。風の残り香がわずかにするばかりで、どうやら早々に離脱したらしい。
 とんとんと軽快な足取りで船を降りた。エレブの大陸に降り立って、一度深呼吸。長時間陸にいなかったからか、安定した大地を踏み締めるのが不思議な感覚に思えた。地上からアーシュの姿を探すがやはり見つからない。
 リュナのそんな考えを他所に、ラウロは自分たちを助けてくれた──と認識すべき──赤髪の少年に歩み寄る。彼の方も自分たちを怪しげに思うことなく、対話してくれるようだ。


「助かりました。私はラウロ=リヴァルタ……隣のレストーネ大陸より参りました」
「レストーネ大陸から! それは、長旅だったでしょう。お疲れのところ、大変でしたね」
「災難には慣れておりますが、ああいう事態は少し……。……失礼ですが、お名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、すみません。僕は──」


 少年の鮮やかな空色の目がこちらを向いた。どくん、と一際心臓が大きくなって、息苦しい思いをする。
 愚直なほどにまっすぐな視線。こちらをただ見ているだけだというのに、そのまっすぐさに溺れてしまいそうな。


「僕はこのリキア同盟、フェレ候盟主の嫡男……ロイ、と申します」



紅蓮との邂逅

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Dear, My Doll.