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「お前は……!」


 この城にあるはずのない、あってはいけないその人影。クロムの瞳が揺らぎ、動揺の色が見て取れた。
 パピヨンの仮面を被ったその人──マルスは薄く笑みを携え、三人の前に姿を現した。しかし闘技場で出会ったときのような明確な敵意はなく──あの時は戦わねばならない理由が理由だったので今とは状況がかなり違うが──、その証拠とでも言うように手には何も持っていない。相変わらず、その腰にはクロムの剣ファルシオンによく似た剣があるのだが。


「久しぶりだね」


 極めて穏やかな声でマルスは言う。争いの姿勢を一切見せず、そこに在る彼──或いは彼女は、何処か異質な存在にも見えた。
 その様子を見てフィシカは一、二歩だけマルスから距離を取る。何があってもいいようにと、短剣に手をかけることも忘れずに。マルスもそれを確認したはずだが、何も言わない。本当に敵意がないのか、或いは悟られないようにするための作戦か。残念ながら、今この状況だけで判断することは、軍師たるルフレにもできなかった。


「何処から入った?」


 そんな二人の緊張感なんて露知らず、クロムは真っ先にその疑問を口に出す。否、この質問が大事ではない、というわけではない。もしも抜け道があったとして、それが他国の人間に知られていたとすれば大問題だ。知らぬところから暗殺者が入っていたらたまったもんじゃない。
 聞かれることを予測していたかのように、マルスは言葉を詰まらせることなく紡ぐ。


「城壁の一部に、小さい穴が開いていたんだ」
「あそこか……! 参ったな」


 思い当たる箇所があるらしく、クロムは苦い顔をして髪を掻いた。無論フィシカもルフレもそんなものは知るはずもなく疑問符を浮かべるのだが、聞いていいものかと一瞬ためらう。
 しかし一度湧き出た好奇心は抑えることは容易くない。フィシカとルフレ、二人でアイコンタクトを取り合って、遂にルフレが口を開いた。


「クロム? 穴って?」


 本当にマルスの言う通り城壁に穴が開いているのならそれはそれで問題だ。マルスには敵意がないから良かったものの、そこから賊らが入ってこない可能性はないとは言い切れない。だというのに、その穴の修繕が行われていないなんて、とフィシカは勝手な危機感を抱いていた。
 胃がキリキリする。そんなフィシカの心情をしってか知らずか、クロムはポツリポツリと言葉を落とす。


「実は、剣の稽古をしていて壊してしまった壁があってな。隠していたつもりだったんだが……そうか。バレていたのか……」
「……そういうこと、あんまり隠さないほうがいいと思うわよ、クロム。フレデリクが怖いのは、なんとなくわかるけど……」
「ばれてはないよ、僕以外には。大切な秘密だからね」


 なら何故、あなたは知っているの。そんな疑問がフィシカの声帯を震わせかけるが、それは寸前で止まる。
 マルスの顔色が、明らかに変わったからだ。否、顔色だけではない。纏う雰囲気もまるで別人のもののように、ピリピリと張り詰めていた。
 それこそ、城壁の穴なんてものはどうでも良いと思わせるほど、重い空気。マルスが何故そんな空気を纏うのかはわからないが、それでもこの状態に水を差すわけにはいかなく感じたのだ。


「それより、今日は君たちに大切なことを伝えに来たんだ」
「大切なこと……だと?」


 一体それが何を示しているのか、分かるものはこの場にはいなかった。城壁に穴が開いていることはかなり重要なことだとは思うが、そんな次元の話じゃないということはフィシカもルフレも、序でにクロムにも分かった。
 すぅ、とマルスが息を吸う。何処か緊張したようなマルスの動作に、フィシカはじっと魅入る。明るい話ではないということだけはなんとなく悟り、思わず身構えた。

 想像もしなかった言葉がその空気を震わせる事になると、誰が思っただろうか。


「……聖王エメリナに迫る、危機について」
「!?」


 予想以上に重い言葉が、三人にのしかかる。言葉の意味は理解できたが、何故そんな言葉が出てくるかの理由がわからなかった。
 エメリナはさっきまで自分たちと一緒に帰路についていた。病などで伏しているわけでもない。というと、つまり起こりうる事態は限られてくるのだが、やはりそれでも理解が追いつかない。


「姉さんの……? どういうことだ? それに、なぜお前がそれを?」


 クロムの疑問はもっともなもので、それ故にフィシカやルフレも口を挟むことはしなかった。余計なことを言って話を滞らせてしまえば、マルスの言う「聖王エメリナに迫る危機」がさらに現実味を帯びてしまうことを分かっていたからだ。
 その問いかけも予測の範疇だった、と言いたげにマルスはクロムから視線を外さない。


「僕は未来を知る者だと言ったら……信じてくれるかな?」
「……ち、ちょっと待って。未来を知るなんて、そんな……」
《フィシカさん、》


 ふと、フィシカの脳内に声が過る。言葉を切って視線をマルスから少し外せば、その声はより一層確かな形を持ってフィシカへと語りかけた。
 その声は、《存在》は。フィシカにとって、絶対である。


《……その人は嘘を言ってるような雰囲気じゃあないよ。今は耐えて、その人の話を聞いて》


 でも、と心の中で反論する。逆らえるなんて思ってはいないが、言わずにはいれなかった。あまりにも信じ難い話で、鵜呑みにしてしまえばこちらに危険があるとすら思えたからだ。
 その《存在》──フォーゼはそれも分かっているような口振りで、しかし厳しくフィシカを諭す。


《いいから。その人じゃなく僕を信じて》
「…………」
「僕は知っているんだ。聖王エメリナが暗殺される絶望の未来を……!」


 ……ズルい言葉だ。フィシカが《存在》に、フォーゼに背けるはずもない。幼い頃からそれを徹底してきたフィシカに取って、それは呪いのような言葉だった。
 フォーゼを信頼しなかったことは一度もない。それと同時に、裏切ったことも一度もない。そして、おそらくそれはこれからもだ。フィシカはただ黙って、その言葉に従う。マルスを信用するのではなく、フォーゼを信用するという形で。


「……すまない、こんなことを言っても信じられない……だろうね。僕が真実を語っていると、証明するよ」


 マルスがゆっくりと剣を抜く。ぴり、と鋭利な敵意が、空間を満たした。
Dear, My Doll.