19



 思考が冷える。視界が明瞭になる。
 今まで靄がかかったようだったすべてがはっきりとして、ルドヴィカはその問いかけを口にした。後ろからひりひりと伝わる敵意はマークスのものだろう。

 首にかかった刃は、今のところルドヴィカの首を切り落としてはいない。迂闊なことをすれば落とされるのだろう、という予測は容易にできたが、逆に言えば慎重にことを成せば良いだけのことである。
 故に言葉を吟味し、出てきたのは何故ではなく、どうして、と行動の意味を問うものだった。

 マークスは「私は戦わない」とは一言も言わなかった。だからこの行動は卑怯だとは思わないし、考えがあっての事なのだろうと思い至る。
 しかし、そのマークスの思考を読み解くことは出来ない。どのような考えがあって、その行動に及んだのかということを汲み取ることが出来ない。
 故にルドヴィカは問う。その真意に触れ、確かめるために。

 ルドヴィカの意を察したのだろう。マークスは刃を動かすことなく、ゆっくり口を開いた。


「今、お前の正気はどこにあった」
「……分かりかねます」
「まぁ、いい。だが狂気に囚われていては、このように別な襲撃に気づけぬやも知れん。それを、お前はわかっていたのか?」


 わかっていたのか、と聞かれると答えは否なのだろう。とても理解できるようなことではない。
 当然だ。今のルドヴィカに記憶は有らず、理論頼りの行動ではないのだから。
 腕から剣が弾き飛ばされたあの瞬間に何かが脳裏を過り、そうしなければ、と一種の強迫観念のようなものに突き動かされただけ。体がそう≠ネっていたのかもしれない。

 そして今も。
 剣が首に宛てがわれた、ただそれだけで思考が冷えた。命を振り返らずに戦うことも出来たと言うのに。故にそれは、恐らくは記憶があった頃のルドヴィカが体に教えこませたものなのだ、と推測できる。
 捨て身で戦うことがあったとしても、命の危機があるならば即座に思考を冷やす。理論ではなく、体がそのようになっている。
 それは記憶のないルドヴィカにとっては記憶の手がかりで、生存の楔で──同時に、かつての自分が戦いに身を置いていたという、何よりも悍ましい証拠であった。

 小さく息を吐き出す。ならば自分が捕まっていた理由も想像がつくだろう、と考えを張り巡らせかけて止めた。
 今はそのようなことをしている場合ではない。マークスにその気があるかどうかは分からないが、今のルドヴィカは確かに命の危機にあるのだから。
 ひんやりとした刃が首の皮に埋まっている。体を少しでも動かせば、それは皮と肉を薄く裂くことになるのだろう。


「……分かっては、いなかったのでしょう。……ですが」
「ですが……何だ?」


 マークスの言葉が終わるのを待って、ルドヴィカは体の重心を後ろへとずらした。体が後ろに傾き、刃と首が擦れてほんの少し切れたのだろう。鋭い痛みが首に走る。
 何が起こったかマークスが判別するよりも早く、左足を軸にして体を反転させる。真後ろにいたマークスが視界に入り込んだ。
 重心ごと体を落とす。視界が沈み首が刃から離れ、命の危機を脱する。そのままマークスへと距離を詰め、彼の首をめがけ手を伸ばし──首にかかる寸前で、その手を止めた。


「──あの状況を脱し、反撃も可能なのだと。短剣でもあれば、それを首元に突きつけられたのかもしれませんが、生憎とそれはありませんので。これで、いかがでしょうか」
「それは、理論に基づき、か?」
「いいえ、感覚に従ったのです」


 過不足無く、偽りなく伝える。記憶がなく、自らを保証するものが何一つないこの場ではそれしかないためだ。
 怖くないわけではない。命の危機に晒されていたわけだし、自分が今この手を伸ばしている相手たるマークスのことも、今のルドヴィカには恐怖の対象でしかなく、またそうでなかったとしても、相応の立場を持つ人間を相手に立っているというこの状況自体が悍ましいのだ。

 息を呑む。彼の次の言葉を待つ。何を言われるのかと身構えながら。
 しかしマークスは再びルドヴィカに向かって口を開くことはなかった。剣を鞘へ納め、ガロンの方へ向き直っている。


「……王よ」
「……クク」


 歪な笑みがガロンの口元に浮かぶ。嫌な汗が背を這って、しかしそれが表に出ないようにと下唇を噛んだ。
 幸い、それが悟られることはなかったのだろう。ガロンは隣にいた、妖艶な女性や端正な顔の少年と会話をしている。いったい彼らは何を話しているのだろうか、と気にならないこともなかったが、生憎とここからでは聞こえない。
 しばらくしてから、ガロンの瞳がこちらを向く。暗黒を投影したようなそれに飲み込まれそうになって、しかしなんとか自らの意思をこの場に繋ぎとめる。


「追って、貴様の配属を伝える」
「……は、いぞく?」


 意味が分からない。
 言葉の意味は勿論理解できる。だが、何故その言葉が自分に向けられているのかがわからないのだ。助けを求めようとも、ここにルドヴィカの明確な味方はいない。
 どう答えるのが正解なのだろうか、と目線を泳がせていると、それに気づいたマークスが口を開いた。その声音が少し哀れみと優しさに濡れていると思ってしまうのは、ガロンが御恐ろしいからか、それとも。


「王は、お前をこの暗夜王国で働かせる、と言っている」
「な──っ」
「そもそもお前の実力を見る、というのもそのためだ」


 納得はする。理解は出来ない。記憶も素性も明らかではない自分を王国で雇い働かせるなど、正気の沙汰ではない!
 その考えが口を出ることはない。マークスの視線がこちらを捕らえ、圧倒する。言葉は押し留められ、戻されていった。


「──王の考えなど。我々私たちの理解出来るところにあるはずがないだろう」







「ごめんね、さっきは」
「……お前は」
「ラズワルド。今はそう呼んで」


 今は、という言い方が少し気になったが、どうも踏み込める雰囲気ではないので口を閉ざした。
 オーディンによって再び拘束魔法をかけられ手に自由の利かなくなったルドヴィカは、今度はラズワルドに連れられ牢へと戻ることになるらしい。この拘束は牢に戻ると自動的に外れるような細工がされているようで、逆に言うと今はどうにもできない。逃げることは、どうやらできないらしい。


「僕たちはマークス様の言葉には従いたいから。君を傷つけるような真似はしたくなかったんだけど……、でも、やっぱり君には勝てなかったな」
「やっぱり?」
「ううん、何でもない。気にしないで」


 柔らかな笑みをこちらに向けて、自分に歩くよう促す。あの冷たい床の部屋に戻るのは気が進まなかったが、そうするしかできないのだから仕方がない。
 重い足を動かす。先ほどまでは緊張で気づかなかったが、どうやら大変に疲弊しているようだ。
 困るな、と苦笑する。それでも進まねばならぬのだから、と足を動かして──自分とラズワルドのものではない足音が近づいてくるのに気が付いた。


「──あのっ、君!」
「……?」


 声をかけられたのだと理解するのに、そう時間は要さなかった。

 声のした方を見やる。そこにいたのはガロンの傍にいた銀髪の少年。
 竜のような赤い瞳に、少し尖った耳が特徴的な少年だ。人とは違う雰囲気のように見えたが、それが怖いとは思わなかった。それは本人の柔和な物腰故だろうか。


「……私に、何か?」
「あ、いや……ごめん、急に声をかけたりして。僕はカムイ。北の城砦で暮らしている第二王子なんだ。マークス兄さんの弟で……」
「あなたが?」
「見えないかな、よく言われるんだ」


 王子に見えない、というわけではない。人と違う雰囲気、というのも王子ならば納得だ。一般人のそれと同じであるはずがないのだから。
 しかし、マークスの弟と言われると少し首を傾げる。あの威厳に満ちたマークスの弟だとすぐに繋がらなかった。
 そんな彼が──カムイが自分に何の用だろうか。何か不敬を働いたのか、と体を強張らせたが、どうもそうではないらしい。


「……君さえよければ。僕の下で働いてくれないかな」
「……え?」
「さっきも言ったけど、僕は北の城砦で暮らしていて。兄さんや姉さんたちは城にいるんだけどね。でも、僕は違う」


 カムイは語る。こちらを警戒させぬようにと、最大限に優しい声で。その気遣いはルドヴィカにも伝わるもので、彼に対する印象が良くなっていく。
 全く警戒しないというのは逆に難しいが、それでも彼にはルドヴィカに対し心から接しているように見えるのだ。


「きょうだいのみんなと離れて……、父上ともたまにしか会えない場所で、暮らしているんだ。それで人手が欲しい。警備も、普段のことも……、今も回っていないわけじゃないけれど、人手は多い方がいいって思って」
「…………」
「君の立場が悪くなるようなことはしない。僕に出来ることは少ないけど……約束するよ。どうかな」


 差し伸ばされた手が、救いの手に見えた。
 記憶もなにもない暗闇の中に差し込んだ一条の光を、ルドヴィカは──。



人はそれを希望と呼ぶ
(きっと他人には何ともないことなのだろうね)(けれど、私にとってそれはすごく眩しかったんだ)

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Dear, My Doll.