情熱の女帝は高らかにはじまりを告げた
士官学校の中庭でファーストネームは一人ベンチに座りながら、夜明け前の空を見上げていた。
星が見たかったわけではない。散歩がしたかったわけではない。天馬の節の空気は冷たく、ファーストネームの体温を容易く奪っていく。
しかし、だからと言って自室に戻って眠る気にはなれなかった。
祖国のことを思うと胸がざわつく。明日の──時間的には既に今日の──儀式のことを思うと呼吸がしづらくなる。
確信がある訳では無い。だが、何かが動くならばその時しかないとファーストネームは漠然と思っていた。
「こんな夜更けに、一人でどうしたのかしら。
師に見つかれば心配されてしまうわよ?」
「……!」
美しいメゾソプラノの声がした。それから一瞬遅れて、月明かりに透けた銀髪が横に並ぶ。
見間違えない。幼い頃とは様子が変わってしまったけれど、それは確かに長く付き従ってきたものだ。
視線をはっきりとそちらにむける。明け方のような薄い紫が、少し悪戯にこちらを見ていた。
「……エーデルガルト様」
「眠れないの?」
「……そんなところです」
厳密には眠れない、訳では無いのだと思う。目を閉じれば睡魔はきっとすぐに襲ってくる。それでも寝ないという選択をしているのはファーストネームだ。
そんなファーストネームの様子に気づいたのか、エーデルガルトは小さく息を吐き出した。あなたって昔からそうよね、と言われたのであなたもでしょう、と返す。返事はない。図星だったようだ。
「こんな所にいては身体が冷えてしまうでしょう」
「それは……」
「まぁ、あなたの事だから、素直に部屋に戻るとは思えないけれど」
呆れを孕んだ声でエーデルガルトが言う。否定できる材料が一切ない上、そのつもりだったために今度はこちらが反論の言葉を無くしてしまった。
ファーストネームは小さな頃からエーデルガルトに付き従っていた。次期皇帝である彼女の使用人になることは生まれた時から決まっていて、それになんの疑問も抱いたことはない。
当然のようにエーデルガルトに付き従い、当然のようにエーデルガルトの命を聞き、当然のようにエーデルガルトと同じ士官学校に入学した。小さな頃は親からエーデルガルトのために働けと言われていた気がするが、士官学校に入学することは自分の意思で決めた。そうすることがファーストネームにとっての当たり前であった。
だからこそ、なんとなく今はエーデルガルトの隣に居づらい。
エーデルガルトは今、ファーストネームに隠し事をしている。それは予測でも予想でもなく、ファーストネームにとっては確固たる事実だった。
故に隣は少し居心地が悪い。ファーストネームから何かを問い詰めることは無いし、彼女の言葉を待とうと思う。ただ、うっかり口を滑らせてしまうのが、ほんの少し怖かった。
そんなファーストネームの胸中を知ってか知らずか、エーデルガルトが口を開く。ゆっくりと紡がれる言葉の羅列は、どこか物悲しげに聞こえる。
「……こうして二人で話せるのは、何年ぶりかしらね」
「……エーデルガルト様のお傍には常にヒューベルトがおりますからね。今節はヒューベルトが居ないこともありましたが、士官学校の中だとそれもなかなか難しく」
「私はずっと、あなたと話したいと思っていたのだけれど……ファーストネーム、貴方はどう?」
「私は、」
言葉に詰まってしまう。
話したいか、話したくないか。その二択なら間違いなく前者だ。しかし先も述べたように、なにか余計なことを口走ってしまうのが怖い。それを考えると、おいそれとその答えを口にすることが出来ない。
口篭るファーストネームの様子にエーデルガルトも気づいたのだろう。くすくすと苦笑を浮かべて「意地悪な質問だったわね」と付け足した。
「ねえ、ファーストネーム。この一年貴方は楽しかった?」
「はい」
「そう、よかった。……ヒューベルトもそうだけれど、貴方も……私について士官学校に来てくれたから。時間の押しつけになってないか心配だったの」
「そんなことはありません……、ここに来るのは、私が自分の意思で決めましたから」
きっかけは確かにエーデルガルトの入学だ。だが、それでも入学を決めたのは自分の意思だし、それに向けての勉強も自ら行った。誰に命令されるでもなく、エーデルガルトのそばに居たいと思ったのはファーストネーム自身だ。……今、居心地が悪いと感じているのも。
だから、そのことに対してエーデルガルトが何かを思う必要は無い、と考える。それをそのまま伝えれば、エーデルガルトは少し驚いたように目を見開いた。それから少しして、彼女は目を細めてありがとう、と呟いた。きっと、こちらの意図に気づいたのだろう。
「……では、そうね。皆のことはどう思ってる? 級長として……いいえ、違うわね。貴方の幼馴染として聞きたいの」
「みんな、ですか」
エーデルガルトに言われ、黒鷲学級の面々の顔を思い浮かべる。
……騒がしい学級だったな、と思うと少し苦笑いがこぼれた。しかし、嫌な気はしない。最初の頃はまとまりのない学級を少し疎ましく思うことはあったが、それでも。
「カスパルとリンハルトは、性格が真逆なのに仲が良くて微笑ましくて……、フェルディナントはエーデルガルト様への子供じみた対抗心と執着さえなければ、向上心が高くとても尊敬に値する男だと思います。
ペトラ王女の真面目で努力家なところは大変好ましいですし、最近ではベルナデッタもお話をしてくれるようになって嬉しく思います。ドロテアは男性貴族へのあたりが厳しい面はありますが、その分貴族と平民の掛け値なしで──……エーデルガルト様?」
「えっ?」
「私の顔になにか……?」
エーデルガルトの視線を感じて、思わずそんなことを口にした。二人で話しているのだから彼女がファーストネームを見るのは自然なことなのではあるが、それにしてもエーデルガルトの視線は、何故だかあまりに真っ直ぐすぎるように思えたからだ。
本人にその自覚はなかったのだろう。目をきょとんとさせたエーデルガルトはすぐ我に返ってつい、と口を開いた。彼女の視線が白み始めた空に向く。
つい、とはどういうことだろうか。今度はファーストネームがエーデルガルトの顔をじっと見た。
「……皆のことを話しているファーストネームが、昔のファーストネームに思えたから」
「昔の?」
「とても楽しそうで、ついね。今のあなたは、従者という枠組みに嵌め込まれているように感じていたから」
「それは……」
それは、おそらくその通りだろう。意図的にそうなるように振舞ってきたのだから。世間一般的には、それが正解なのだろうと信じて。
だが本当にそうしたかったのか、と聞かれると疑問が残る。自分がここにあるのは自分の意思で、エーデルガルトに付き従うというのも今では自分が心からそう思っている。けれども、そういう振る舞いをするのは、果たして自分の本意なのだろうか。
そういうことを、エーデルガルトは言っているのだろう。……幼い頃からずっと一緒に過ごしていたのは、伊達ではないということだろうか。
「皆のこと、好きなのね」
「はい、……みな、大切な仲間です」
「……そう」
エーデルガルトの声のトーンが落ちた。ぎゅっ、と心臓が掴まれたような感覚に陥る。
その声には温かみなどない。あるとすれば凍えるような冷たさか、或いは──燃え盛るような、炎の熱さか。
その熱に、或いは冷たさに、思わずファーストネームは身震いする。思わず彼女の名前を呼びかけて、口を閉じた。彼女の夜明け時のような目が、真っ直ぐとこちらを見ている。
「ファーストネーム」
「……はい」
「もしも、……もしも、その仲間と私、どちらかを選ばなければならなくなったとしたら……貴方は……」
その先の言葉が紡がれることは無かった。無かったが、その瞳が語っている。読み違えも、きっとしていない。
エーデルガルトは、きっと隠し事を暴露しようとしているのだろう。この質問は、そのきっかけに過ぎないのだろう。ならば──ならば、黙って彼女の言葉を待つのは従者として、なにより幼馴染として、自分自身が許せない。
故に、ファーストネームは口を開いた。隠し事をしているということを知っている、と伝えるために。
「……宰相エーギル伯が更迭されたと聞きました」
「! ……誰からそれを?」
「独自の情報網です。ヒューベルトでも先生でもありませんから、お気になさらず」
「……どこまで分かっているの?」
「さて、エーデルガルト様が何処まで隠しているのか、私にはわかりませんから」
エーデルガルトの目を見つめ返し、はっきりと告げる。彼女の使用人になるのだから、と自分で自分の仕事を得られるように今まで行ってきた全てが功を奏した。
ファーストネームは知っていた。
エーデルガルトが皇帝の地位に着いたことも、そのために先生と帝国に戻っていたことも、皇帝となった彼女が何をしようとしているのかも、ヒューベルトが今節学校にいない理由も、知っていた。
全て知っている訳では無いのだろう。彼女が何故怪しげな連中と共にいるのかを調べようとしたが、上手く情報を掴めなかった。彼女がどうしてそうしようと思うに至ったかも、予測はできても確信を得ることは無かったのだから。
それでも、ファーストネームは知ってしまった。それをエーデルガルトが隠していることすら。
「……隠していたつもりだったのだけれど」
「小さな頃から共に居たのですから、これくらいは」
「……そう、……ふふっ、そうね」
エーデルガルトの瞳が一瞬安堵に濡れて、しかしすぐに元の色に戻る。
否。
元、というのはきっとおかしいのだろう。その色は、今までの自分を閉じ込めていたエーデルガルトではなく、たった一人の少女のものになったのだから。
(……あぁ、昔のエーデルガルト様のようだ)
先程は、自分が昔のようだと言われた。今度は、エーデルガルトが昔のように見える。エーデルガルトからも、あの時の自分はこう見えていたのだろうか。
エーデルガルトの目は純然たる決意と、少しばかりの恐怖で彩られている。それは皇帝として上に立つものの目ではなく、ただ、自分の望む答えを得られなかったら、という個人の思いから来ているものなのだろう。
「……きっと、貴方は……私がアドラステア帝国の皇帝として命令すれば、私に付き従ってくれるのでしょうね。
でも、それは……私の望むところではないの。だから……だから、ただのエーデルガルト=フォン=フレスベルグとして──」
「エル、……様」
「…………」
口をついて出たのは、かつての呼び名だった。
いつからこの呼び名をしていなかっただろう。そう呼ぶことが不敬だと思い始めた頃には、親に既に矯正されていたはずだ。
久しぶりに呼んだその名は、少し震えて詰まってしまった。だから誤魔化すように敬称をつけた。当の本人は、驚いたように目を開いている。
「あなたがしようとしていることを、私は知っていて、それを大司教殿に報告していない。それが証明にはなりませんか?」
「……意地悪ね。証明になったとしたって、言葉で聞きたいと……」
「えぇ、分かっています。だから、エーデルガルト様。……いいえエル、今だけはただのファーストネーム=ファミリーネームとして」
一呼吸。そして沈黙。
ばくばくと心臓の音がうるさい。この心臓の音は自分のものだろうか、もしかするとエーデルガルトのものかもしれない。
この言葉はきっと、全ての運命を決める一言なのだろう。緊張するなという方が無理な話だ。
だから一瞬言葉に詰まって──それでもファーストネームは、エーデルガルトにその言葉を告げることを選ぶ。
「私は、貴方と共に歩みます」
「……ファーストネーム」
すとん、と。
エーデルガルトの身体がこちらにもたれかかる。力が抜けたように安心したように体重がかかるその体は冷え切っていた。天馬の節の冷たい空気に晒され続けていたのだから、無理もない。
エーデルガルトの体を支え、部屋へと誘導するべきか。そんなことを考えていると、エーデルガルトの手が己の手に重なった。やはり手も冷たい。
「……よかった。それから、ごめんなさい」
「何故エーデルガルト様が……」
「……ずっと隠していたから」
「良いのです。だからこそ、私は貴方の日常の象徴であれました」
「日常の……」
「はい」
もしも初めから全て知っていたのならば、エーデルガルトが不安に思うことは無かっただろうが、それ故にそのことばかりに気を回して、日常の生活を疎かにしたことだろう。
それはきっと、エーデルガルトにとってもよくないことだ。自分が彼女の日常の全てに寄り添っているとはとても思わないが、少しでも彼女の心安らぐ日常の一部ではあると自負している。だからこそ、自分が全てそちらに染まらなくてよかった、とも考えている。
「……戻りましょうか、ファーストネーム。流石に少し、寒いわ」
「ふふ、はい。お部屋までお送りしましょう」
「……それもいいけれど、今日は……」
「あなたが望むなら、共に居ますよ」
怒られるか、冷たい目を向けられるか。そんなことを思いながら冗談を言ってみたが、少し考え込んだエーデルガルトはそうしてもらおうかしら、と真面目な顔で答えた。冗談か本当なのか分からなくてファーストネームがなんだか照れてしまった。
立ち上がるエーデルガルトに数テンポ遅れて追随する。空は曙色を映していた。空を背に、エーデルガルトはファーストネームの方を見て言う。
「……始めましょう、夜明けのための戦いを。着いてきて、離れないでね、ファーストネーム」
「ええ、私はどこまでも、エルと共に」
情熱の女帝は高らかにはじまりを告げた
(エル、貴方のために貴方の炎に焼かれましょう)
2019.09.07
Title...王さまとヤクザのワルツ
原題:情熱の女王は高らかにはじまりを告げた