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父は愛人を多く持ち、母はそんな愛人の一人だった。母は奔放な人で夜遊びばかりしており、母親らしいことをされた記憶はなかった。
優秀な子を跡取りとする為あちこちに子を作っていた父は、最初の数年間他の子供たちにしていたのと同じように、オレに学習を指導していた。よく褒められはしたが、次第に父の望んでいた"跡取りとしての優秀さ"ではないと見放され、父が家に顔を出す回数も減っていった。
父の教育の一環で、勉学に励むくらいしかやることがなく、人との関わりが極端に少ない幼少期を過ごした。
そんな頃に、隣家に日本人家族が住むことになった。
父が亡くなり、祖母を頼ってイタリアの地を訪れたらしい。挨拶に来るなり身の上話をしたその"母親"は、自分と同じ歳くらいの娘がいるから仲良くして欲しいと夕食に招待してきた。父の来る回数が減ってからまともな食事は学校でくらいしか食べていなかったので、深く考えず招待に与ることにした。しかし結局その日、その母親の"娘"と接することはなかった。
隣家の母は優しく、感情表現に乏しい自分を度々夕食等に招待してくれた。しかし母親の娘が、それをあまりよく思ってはいなかったらしい。
「ほら、挨拶しなさい」
「…………」
「ごめんね、この子人見知りで」
ようやく顔を合わせた"娘"は、母親の影に隠れてこちらを睨んでいた。顔も見たことがなければ言葉を交わしたこともなかった彼女に恨まれる理由がさっぱりわからなかったが、人見知りというのだからそうなのだろう。
「なまえちゃん、挨拶の時はボンジョルノ、というのよ」
「…………ボンジョルノ」
「ボンジョルノ、なまえ」
なまえと呼ばれた娘は、祖母に日本語で促され、たどたどしいイタリア語で挨拶をした。淡々と名前を呼び挨拶をし返すと、今度は祖母の後ろに隠れてしまった。
「越してきたばかりでイタリア語もあんまり上手じゃなくて、恥ずかしいのかもねえ」
彼女の母親が言ったように、彼女の祖母もまた『仲良くしてあげてね』とオレに微笑みかける。当の本人が望んでいないだろうことを、なぜ頼むのだろうか。理解はできなかったが、食事の礼もあり日本語を勉強することにした。
「こんにちは、なまえ」
「…………こんにちは」
ある日、お呼ばれしていたので家を訪ねると、珍しく娘が出た。相変わらずすぐに目をそらすが、挨拶はしてくれるようになった。
奥から慌ただしく彼女の祖母がやってきて、彼女の母親が体調を崩したと聞く。どうやら、元々体が弱いらしい。夕方になり、今もなお寝込んでいる母親を除く三人で食卓を囲んでいると、突然彼女が泣き始めてしまった。
「あらあら、心配しなくても大丈夫よお〜」
「…………っ」
ぽろぽろと泣く姿を見て、改めて人は目から水がこぼれるものなんだなと思った。そんな彼女とは違って、波立つ様子もない自分。彼女が自分を苦手なのは、人としての心が欠けているからなのだろうと思った。
「医者を呼んでこよう」
「え?」
「家に連絡先の書いた名簿がある。期待されていた時に聞いた父親の知り合いだから、腕は確かだと思う」
食事もそこそこに立ち上がると、ぽかんとした彼女を残して、彼女の祖母が追いかけてくる。
オレの名を呼びながら待ってと繰り返していたが、玄関を出たところで手を掴まれ、祖母が小さな声でそっと話した。
「ごめんね、もう治らない病気なのよ」
「…………」
彼女は、娘は母の病を知っていたのだろうか。孫娘には黙ってて欲しいと頼む祖母を見上げながら、彼女の表情を思い出す。
母親と祖母の優しさを、一心に受けて育った彼女。きっと、その優しさを踏みにじらないように、気付いていないフリをしているのだろう。
なんとなくそう思って、彼女の祖母に手を引かれるままにテーブルへと戻る。
「おかあさんを助けようとしてくれて、ありがとう」
「……」
「…じゃなくて、えと…グラッツェ、"メローネ"」
彼女が気になりはじめたのは、それからだった。