さよならフレッド
白銀の世界。今もしんしんと降る雪が、そこに立つ人すらも白く染めあげている。時計台の下でぴくりともせず立ち続けているその人物は、視線だけで時間を確認した。
2時間、か。彼女が頭の中でこぼしたそれは、ここで立っている時間のことだった。
彼女、なまえは暗殺者だった。だった、と表すのは、決して彼女が現在は"暗殺者ではない"という意味ではなく、今は彼女の心が凪いでいるからに他ならない。彼女の心は穏やかだった。一人の男を愛し、一人の男とあたたかな幸せを過ごすことに何よりの幸福を感じていた。
本来のなまえという人間は親に捨てられ酷く荒れ果てており、誰も信用できず、拾われた男にさえ敵意を向けるような、野良猫のような子供だった。だからこそ生きるためならばと殺人でもなんでもやったし、裏の世界に生きるのに相応しいものの考え方をしていた。
それを、彼女を拾った男が覆してしまった。
彼女は考えが変わってしまったのが恐ろしかった。このままでは、自分を拾った男の助けになれない、このままでは生きられないと思ったのだろう。彼女は無理矢理にでも男を嫌いなフリをして、嫌われるようなことをして、これまで通り仕事をこなそうとした。しかし、男はそれを良しとしなかった。
男は彼女の心根が優しいことにとっくの昔に気付いていたのだ。男は彼女に愛していることを伝え、おまえなしでは生きられないとまで言ってのけた。
そうして、彼女の心は、愛に溢れてしまったのだった。
「なまえ」
「リゾット…」
白に染まった世界に似合わぬ黒が駆けてくる。足跡が薄汚く汚れる様を見ながら、なまえはリゾットが目の前に来るのを待った。
「風邪をひくようなことをするんじゃあねえ」
ばさばさとなまえの肩に積もっていた雪を振り払うと、リゾットは嗜めるような目つきで彼女を見た。
「待ってたら、来てくれるのかなと思って」
来なかったら、また怒りとか恨みとかで、人を殺せそうな気がしたのだと、なまえがこぼすと、リゾットは冷え切ったなまえの頬を両手で包み込んだ。
「こうすればあたたかいだろう」
彼女ーーなまえを拾った男、リゾットは、彼女の心も身体すらも、冷えることを許してくれない。どこまでも冷え切った世界にいながら、誰よりもあたたかな感情を注ぐリゾットに、なまえはゆっくりと目を細める。
「リゾットは、あったかいね……」
なまえの頬に赤みが戻るのを確認すると、リゾットは両手を離し、「帰るぞ」と手を差し出した。
手を繋いで帰るなんて、そんな恥ずかしいこと、誰がするものか。そう言いかけた口を噤んだなまえは、一考したのち、リゾットの手を取った。
「まだ、ちょっとだけ寒いから」
「…そうか」
そう言い訳をして手をぎゅっと握る様が、どうしようもなく愛おしい。そう感じたリゾットが空いた手でそっとなまえの頭を撫でると、彼女の耳が少し赤くなった気がした。