空蝉
「あ、セミの抜け殻」
木についていたそれを手にとって、机の上に置いた。小学生の時はよく手にしていたけれど、この歳になるとこうまじまじと見る機会もなくて、宿題もそっちのけでじいっと見る。
一階にある教室は、草木に囲まれていて手を伸ばせばすぐ外に触れられる。内に引き込まれてしまったそれは、扇風機の風で煽られてもう一度外へ飛んでいってしまった。
「せっかくとったのに」
「気持ち悪い遊びをするなッ!」
男のくせに虫が苦手というべきか、綺麗な顔の通り醜いものが苦手というべきか。二枚重ねたティッシュペーパーで机を拭き捨ててから、シーザーは私の隣に引っ張ってきた椅子に腰を下ろした。
「それより、帰るまでに宿題終わらせるんだろ?なら遊んでないでさっさとやれ」
「は〜〜い」
私以外の人は全て解き終えて提出したらしいそのプリントを恨めしく眺める。一人だけ持ち帰って宿題をする、なんて腹立たしいじゃあないか。そう言ったら付き合ってくれたシーザーは(手伝ってはくれないとは言え)優しい。
とは言え、詰まっているのは登場人物の気持ちを考えるだとか、それに対する感想を書くだとかの部分なので、シーザーが手伝いようもないのだけれど。
たまに、本当にこの世に生きているのか不安になる時がある。ここは、私の生きている世界なのだろうか、と。
本当の私は今も夢を見ていて、辛い何かを忘れようとしているような。何かを失ってしまった後悔を、思い出さないようにしている、ような。いつの頃からだかずっと、そんな恐怖の中にいる。
それがどうしてだかは分からないけど、だからこそ、自分の気持ちも分からないのにこんな少しの出番しかない登場人物の気持ちなんて、分かるはずもないと思った。人の気持ちを考えられるなら、私のこの不安に答えを教えてくれたらいいのに。そんなことをずっと考えていたら、授業が終わってしまった。
答えのない問という意味では、この問題文も同じなのかもしれない。ぐるぐると今も答えの出ていない不安を頭の片隅に追いやる。最後の問いを解き終えたところで、シーザーに褒めてもらおうと顔を上げた。
シーザーは目を瞑りながら、柔らかな風をその身に受けていた。陽の光が星のような髪を輝かせて、この世のものじゃあないみたいだった。
急に強く風が吹き込んできて、思わず目を閉じる。次に目を開けたらシーザーがいないんじゃあないか、なんて恐怖に囚われて、目を開けることにすら怯えていた。
「なまえ」
窓からさす光を浴びているシーザーは、そっと私の頭に触れると、何かを取り払うみたいに優しく髪を撫でた。シーザーの体温が私に触れている。その事実がどうしようもなく嬉しくて、ゆっくりと目を開いた。
「シーザ、」
シーザーの唇はあたたかくて、柔らかくて、生きている人のものだった。私を抱きしめるその体から、心臓の音が聞こえてくる。脈打つ鼓動が、彼の命を作り続けている。その存在を確かめるように彼の行為に応えていると、手のひらと舌が、潜り込むように私を這い始めて、思わず包んでいた頬を抓った。
「なにをするんだ」
「それはこっちのセリフです」
此処を何処だと思ってるんだか。教室内に誰もいないとは言え、まだ外は明るいし、部活動に勤しんでいる生徒は校内にたくさんいる。誰かに見られたらどうするの、という恨みの気持ちを込めて睨みつけると、シーザーは安心したように笑った。
「いつもの調子だな」
「!」
「帰るか」
シーザーは、時折私のことを私よりも理解しているふうになる。普段は自分のことばっかりで、意見が違うとこっちが折れるまで言い合いになったりするくせに。
何気なく手を取られて、指がからめられる。ごつごつしたその手が私を、私の暗い気持ちまでもを包み込むようで、そっと彼の腕に頭を預けた。
繋がれた手に力を込めながら、これからもこの人となんでもない日々を過ごせたらな、と思った。