欲
ーー目の前で、一人の少女が寝ている。オレはゆっくりと彼女の顔が見える距離まで近づくと、額にそっとくちづけを落とす。
彼女はこの世の何よりも美しかった。
純粋さを失わぬその稚さを、穢れを知らぬその無垢さを、一生かけて守らなくてはと思った。
◇
「メローネ、テメーまた例の女のとこ行ってやがったな」
「ああ悪い、遅刻したか?彼女の寝顔を見ていると時間が経つのが早いな」
「オメーが何しようが勝手だが、時間は気にしろ」
時計をちらりと盗み見ると、なるほどどうやら本当に彼女といると時が加速するらしい。予定より数時間遅れてしまったのを確認して、言葉ばかりに謝罪の言葉を口にした。
プロシュートの舌打ちを耳にしたリゾットが、小さく溜息をこぼしている。ようやくか、と言った様子で始まった会話を尻目に、オレは今も地下室で寝ているであろう彼女のことを思い浮かべる。
「(……なまえ)」
彼女ーーなまえは、オレの標的に巻き込まれただけの一般人だった。
なんのしがらみもなく唯々穏やかに家族と過ごしていただろう彼女は、胸焼けがしそうなほど真っ直ぐで、目が眩むほど輝いていて、世の中の汚い何もかもを知らないような、美しい心の持ち主だった。
家族を愛し、家族に愛され育った彼女はきっと、平凡な男と恋をして、平和な家庭を築き、平坦な一生を送るのだろう。
ーーそれが一瞬で瓦解し、今やどこの誰とも知らぬ男に地下室で軟禁されているだなんて、なんと哀れで数奇なことか。
今でもありありと思い出せる、彼女の怯えた視線。どうして泣いているんだと問えば、枷の付いた彼女は唇を震わせながら、外に出たい、と答えた。彼女を狙っていた、彼女の情報を知る人間があと何人残っているか未だわからない。彼女の安全のためにも「まだ君を外に出すことはできない」と答えたが、彼女は納得していないようだった。
しばらく怯えて何も口にせずにいた彼女だったが、目の前で毒味してやったり心配する素振りを見せるうちに不安が解消されたか、はたまた生への執着を捨てきれなかったのか、ようやく食事を摂るようになった。危害を加える気はないというのが伝わったらしい。
その経過に安堵と満足感を覚えながら、始末した標的と比例するように、少しずつ彼女の自由を増やしていく。足枷を外し、地下室の錠を取り払い、家の鍵すら渡した。この家にあるものはオレ自身を含め何だって好きにしていいと言った。
けれどどうか、この家から出ないでくれと頼んだ。本心からそう頼み込むオレに心揺さぶられる彼女は、やはり天使よりも、神だって敵いはしないほど、美しかった。
「…………メローネ」
「!」
「全員先に向かったぞ。……おまえ以外はな」
「ああ、悪い。何の話だった…かは、ギアッチョにでも訊こう」
リゾットの深い溜息を尻目に、オレは足早にアジトを出て、先に出た仲間たちのもとへと急いだ。早く仕事を済まし、自身の頭を占めている彼女の顔をまたこの目で見るために。
ガチャリ。
大袈裟なほど念入りに何重にも掛けられた錠を一つずつ外していく。最後の一つが大きな音を立てて開かれたが、それに反応する声も、それ以外の音も、部屋には響かなかった。
静寂に満ちた部屋で、今開けた錠にもう一度鍵を掛けていく。鍵をそばに置いて、錠が閉じられたことを確認してから、ようやく玄関を後にした。
「すっかり遅くなっちまったな…」
体温を感じられないリビングルームに入って、自然とため息が溢れた。日が落ちてからそれなりに時間も経っている。彼女が寝ていたって何らおかしくはない。
そのことに一抹の寂しさを覚えて、辺りを見回した。彼女は何をしていたのかーーそれらを少しでも感じ取れたのなら、このつまらない感情も報われるだろう。
今朝ここを出た時との変化を、間違い探しでもするように比べていく。ようやく見つけた目に見える違いはキッチンの上にあった。彼女が料理に使ったと思われる皿が、数枚洗われている。
最近はずっと買ってきた料理に関連する本を読んでいるから、興味があるのかもしれない。また、彼女が読みそうなレシピ本でも増やしておくとしようーーそう思い、減った食材から彼女の作りそうな物でも推察せんと冷蔵庫を開け、目を見開いた。
「これは…ミネストローネか?」
保存容器に詰められたスープを揺らして見ていると、こちらに背を向けるようにして隠れていたメモに、小さな文字でメッセージが短く綴られていた。
"ーー忙しそうで心配です。"
まるでオレのことが大事であるかのようなその言葉を目にした途端、衝動的に彼女のもとへと飛び出した。
かつて監禁部屋として使われていた地下にあるそれは、今ではただの寝室となっており、鍵も掛かっていない、出入り自由の場所だった。
「……、なまえ…………」
もちろん内側から鍵を掛けることはできる。万が一の事を考えて、地下室の存在を隠せるようになっていた。
だが、彼女が鍵を掛けることはなかった。それがまるで受け入れられているみたいで、オレが赦されているみたいで、自分の薄汚れた欲で彼女を穢してしまいそうで、どうしようもなく怖くなった。だから初めほど、此処を訪れる回数も、彼女と直接話す回数も減っていた。わざと、減らしていた。
「……綺麗だな、本当に……」
喉から手が出るほど欲しい想いを押し込めて、ゆっくりと彼女の頭を撫でる。彼女の優しさも、美しさも、穢してはいけない。
彼女を守らなくては。何者からも、自分自身でさえも。じわり、じわりと身体を蝕む欲を晴らすべく、オレは今朝と同じ様に額に口付けを落とし、そっと家を出た。
◇
「なまえ?起きていたのか」
「…おかえりなさい」
いつもなら寝ているだろう彼女が、オレを出迎えた。どんなに暗い場所にいてもしとやかに光り輝いている彼女は、先ほど歩いた夜道の月のようだった。
しかしとうに日付は変わっている。朝日を待った方が早いような時間に、彼女はなぜ起きていたのだろうかーーそんな疑問を持つ間もなく、なまえは「どこに行ってたの」と恋人が言うようなセリフをオレに吐き捨てた。
「君が知らなくていいようなところさ」
「……じゃあ、誰と、会ってたの」
「君が、知らなくていいような人間さ」
彼女の様子がおかしい。尋ねる声ではない、責めるようなその声に、荷物を整理していた手を止めた。
今言ったことは誤魔化すための言葉ではなく、心からの言葉だった。だがそれを、彼女が信じるだろうか。そこまで考えて、思い直した。
そういうことではない。この声色は、オレがどういう人間と会っていて、何をしていたかを分かっているものだーー…
「見てたのか」
「…………」
ーー別に、性欲の処理ができるなら、誰だってよかった。
向こうがそれを生業にしていて、オレは溜まったものを吐き出せる。それ以上でもそれ以下でもない、ただそれだけの行為だった。
でもそんなこと、彼女の耳に入れたくはない。
「め、メローネは……さっきの女の人が、好きなの…?」
「? 好きなわけないだろう。オレが好きなのは君だけだ」
じゃあどうして、と小さく声を漏らしたきり黙り込んでしまったなまえ。小鳥のように愛らしく言葉を紡ぐその唇を奪ってしまいたい気持ちに駆られながら、あやすように話しかける。
「なんでそんなこと気にするんだ?」
しかしそれでもまた彼女は黙り込んでしまったままだった。最初の頃はよくあったものだが、最近では話せば言葉を返してくれるのが当たり前になっていたんだなと気付く。話したくなったら話せば良い、と部屋を立ち去ろうとすると、なまえは「待って!」と声を張り上げた。
「わ、たし、わたし、メローネのことがすきなの……だから、メローネが他の女の人のところに行っちゃうなんてやだ……ッ!」
「…………!!!」
「おねがい、行かないでメローネ……ずっと、わたしのそばにいて…………」
その言葉は、オレを縛るには十分だった。
「なまえ……」
「すー…すーっ…」
「可愛い寝顔だ」
メローネはなまえの力の入っていない手のひらを自らの手に取ると、愛おしそうに頬ずりをした。
「君の手がオレを掴んだあの日、オレは自分の至らなさに気付いたよ」
両頬から止めどなくこぼれ落ちる涙と、捨てられまいとする子供のように縋り付く、震えた指先。
それらを思い浮かべながら、握り締めた彼女の手でそそり立つ自身を包み込むと、これまでにないほどの熱と快感に浮かされた。
「もう二度と、君以外の人間を使うことはない。だから安心してくれ……」