深いキスはわたしの思考を奪っていった。
明日お日さま園のみんなで遠足に行くこと、リュックに積める荷物のこと、酔い止めを用意すること、ヒロトを誘うこと。
つい数秒前まで頭の中はそれらでいっぱいだったはずなのに、まるで世界が変わったように脳内は侵食されていた。
何が起きたの。
前触れもなく掴まれた腕が痛くて、塞がれた唇が熱くて、動けない。
舌が歯列をなぞって、滑って、絡みとって。唾液が混じり合う感覚と軽い酸欠で霞む視界にくらくらする。酸素を取り入れようと口を開く度にそれは塞がれてまた飲み込まれる。
幾度も離れようと胸を押し返すがそれはびくともしなくて、わたしはただ壁とこの男に挟まれて息を震わせるしかなかった。
「…っ、ふ、ヒロ…っや」
途端拘束が解けて、一気に空気が回る。浅く呼吸を繰り返しながら目の前の男を睨み付けた。
「…どうして、こんなことしたの…!」
「……」
「…っ」
ぱしん、と乾いた音がした。いや、わたしがさせたのだ。怒り、羞恥、困惑、すべての感情が入り乱れた結果だった。
音を立てて眼鏡が落ちる。
それは彼が高い地位についた象徴のようなものだと思った。
ヒロトは無言のまま眼鏡を拾って、それからわたしの方を見て悲しそうに笑った。
「らしくないって、自分でも思ってる。ここに来てわがままになったかな、」
普通は反対だよねと顔を伏せ前髪をくしゃ、と掴む。
表情は隠れていてここから確認することはできなかった。
だけど、合わされることのない視線と痛々しく呟かれた謝罪の言葉はなぜかわたしの心をざわめかせて。
気づくとわたしは彼を抱きしめていた。
瞬間ヒロトの肩が跳ねる。
「いいんだよ、言っても。疲れたって、怖いって、泣きたいって。わがままだって言ってよ。ずっと社長の姿じゃなくていいんだよ。だってわたしたちずっと家族でしょ。家族の前では肩書きなんて関係ないもの。ヒロトはヒロト。だから我慢しないで、溜めこまないで。傍にいるから、ね?」
不意に高い位置にある肩が小さく震えて、わたしはそれを優しくさすった。
ずっと我慢していた感情が抜けるように。
安心してもらえるように。
小さく彼はごめんと呟いた。
わたしは何を言うわけでもなく、ただそれを聴いていた。
腕の中で何度も何度も繰り返される謝罪の言葉は彼の中の優しさに溢れていて、その安心感に口元が緩く形を変えた。
しばらくして顔を上げたヒロトの目に浮かぶ赤は、とても愛しくて。
降ってきた淡い口付けにわたしはゆっくり目を閉じた。
急かしたプレリュード
(あなたのすべてをきかせて)