海に行こうと提案したのは三月だった。楽しそうな声色にソファーで寛いでいた二階堂大和はゆっくりと振り返る。

「…いやまだ寒いだろ。それにせっかくのオフ…」
「んなこと言ってだらだらしてっと一日なんてあっという間だぜ?で、気付いたらすぐ365日。動けなくなる前に動いとかないと。若者青春を謳歌すべし、って言うだろ?」

そう説明口調で大和の目の前まで来た彼は、な?とばかりに最後大和を一瞥した。…そこで同意を求められても。つーか若者って。俺らがそこに分類されるなら現役高校生はどうなるんだよ。と、いつもなら何の気なしに返す断りの返事を大和は喉で抑えた。
有り難くも数少なくなった貴重な休日。大和にとってそれは文字通り休息の日だった。前日残った酒を感じながら起床し、一織と環に弁当を作って見送る。ついでに弁当と同じおかずを他のメンバーに残した後、もう一眠り。起きるとリビングには大抵、三月の手によって一品二品メニューが加えられた朝ごはん、というよりブランチが置かれている。それを食した後だらりソファーに座りテレビを付けるか本を読むか、はたまたネットサーフィンか。
寮で生活するようになって早一年半。各々の生活スタイルや休日の過ごし方は大体わかってきた。それは大和だけでなく、全員がそうであるはずだ。その中で三月も、いや、三月が例に漏れるということはあり得ないと断言できる。でなければご丁寧にメモまで付いたブランチに説明がつかない。だからこそ大和は引っ掛かりを覚えて返事を飲んだ。休日にわざわざ出掛けようと提案してくる理由。心当たりがない、わけではない。


「海だー!!!」

これが夏ならばまだしっくり来たであろうセリフを叫びながら両手を上げる三月を横目に、大和は運転席のドアを閉めた。ここまで来るのに時間は掛からなかった。それは距離的なものではなく。大和が渋る間にキッチンに立ったかと思えば、冷蔵庫から具材を出し、気付いた時には形のいいおにぎりが着々と完成していた。「おっさん早くしねーと置いてくぞ」と返事を待つ側とは思えない発言に、けれどすぐ誘いをはねのけなかったのは自分だと大和は腰を上げた。それがつい数時間前。

「やっぱどう考えても寒いだろ」
「まー、まだ時期が時期だしな」
「じゃあなんで来た」
「気分転換だよ気分転換」

そう笑いながらぐっと伸びをする三月に、誰の、とは聞かなかった。
申し訳程度に砂利の上にロープが張られただけの簡易駐車場から海岸に降りると、更に風が冷たくなったような気がした。平日ということもあってか辺りには人っ子一人見当たらない。波の音だけが響いて大和はしばし目を閉じた。
自分のことをよくわかっているのは自分だと思っていた。自分のポテンシャル、"最高"そして"限界"をわかっているのは自分だと。演じる人物の経験や過去を想像し、感情をリンクさせる。そしてその全てをカメラの前でぶつける。だから、これだと突きつけたものを簡単に一蹴されたり、自分の頂点を他人に決められたり、というのは中々に堪えるものだ。ただ解釈というピースが合わないだけだとわかっていても。さらにその答え合わせをしてくれる者ばかりでないことを大和は知っている。誰彼構わず教えを乞えるほどここは甘くない。だからこそ魅惑的なのだけれど。何が違う。どれが最高でどれが正解だ。与えられた役は言うなれば勝ち取った役だ。今回だってそれは違わない。うん万といる役者の中で、アイドルという位置付けにいる自分が求められた。期待された。なのにイントネーション、ニュアンス、語尾、仕草…どこを変えてもピースがはまらない。同じシーンを繰り返す度わからなくなっていく、煮詰まっていく。頭にいれなければならない他のセリフが侵食され、溢れていく。もがけばもがくほど絡まり、絞まる。それを楽しいと感じる時間は、とうに過ぎていた。
すっ、と開けた目で揺れる波を見つめながら足を進める。軽かったはずの足元がどんどんと重さを含む。ああそうだ。確かあの映画にも春先の海に入っていくシーンがあったはず。亡くなった恋人を思って何を考えるでもなく、ただただ冷たい水の中へ。

「っ、おっさん!!」

足元の砂を水が拐う。沈む。深く、深く。

「おいって!!」

無理やり腕が掴まれ、振り向かせられる。

「何やって…つーかさすがにまだ寒、」
「…離せよ」
「は?」
「っ離せよ!!!」

言葉に任せて手首に回された手を振りほどく。お前に恋人を亡くした俺の気持ちがわかるか。何不自由なく過ごすお前にこの悲しみが、苦しみがわかるか。わかってたまるか。心に穴が空く。埋めようとしても広がり続ける穴が。わからない。どこに向かえばいい。何をすれば光が見えるようになる。上下左右どこを見ても暗くて視界が遮断される。息が、できない。何も、見えない。

「っ大和さん!!!!」

急に聞こえた声にはっとした。瞬きを繰り返すうちに視界が鮮明になっていく。

「……ミ、ツ」

たどたどしく紡いだ名前に三月はわかりやすく胸を撫で下ろした。

「……俳優ってどこでも役に入れんのな。それとも素?」
「…いや、悪い」
「冗談だよ。せっかくのオフなんだから仕事のこと考えんのやめよーぜ。まだ頭皮の心配したくねーだろ?」
「頭皮?」
「始終頭回してっと禿げるって話」

安堵したようにふっと笑って三月は踵を返した。

「ミツ、」
「んー?」
「…悪かった」
「さっき聞いたよ。つーか俺が本気出さなくてよかったな。手振りほどかれた時点で掴み直して投げ飛ばしてたとこだった」
「…そしたら今頃びしょ濡れだな」
「そうそう。優しくて男前な俺に感謝しろよな」

そう冗談を含んで笑う三月に今度は大和が胸を撫で下ろす番だった。ほんと男前だよお前は。今日半ば強引に話を進めたのだってきっと。気恥ずかしくなるようなそれを心の中で止めて、その変わりに大和は感じた疑問を口に出した。

「ミツだったらどうする」
「何を」
「…誰かがおにぎりを作ってくれたけど食べたい中身がどれかわからなくなったとき」
「なんじゃそりゃ。なぞなぞ?」

意味不明だとわかりやすく顔を歪めた三月はそれからすぐに顎に手をあてた。

「作った奴に聞けば?」
「答えてくれない。自分で考えろって」
「意地悪か!じゃあ当てずっぽう」
「撃てる数は決まってる。それも数回」
「…そいつおにぎり食う気ある?」
「もちろん」
「条件厳しすぎ。あとは……あ!もういっそ自分で作るとか?…あー、けどそれじゃ作ってくれた奴に失礼か?でも中身教えてくれねーしなー…」

再び考え込む三月を視界に入れた後、大和は目を伏せた。…例えが悪かったと思っていた。プライドを守るために出した苦し紛れのそれは、けれど確実に答えを求めていた。正解があると思ったからこそ、そこにたどり着くために聞いたのだ。なのに。

「……自分で作っていいのか」
「はあ?」

ぽつり無意識に溢れた一言をご丁寧に拾ったらしい三月は思い切り眉間に皺を寄せた。
求められているように姿形を変えていくのが正解だと思っていた。書き手の思いに沿うように、間違えないように。解釈はその人のためにあるのだと、そう思っていた。けれど。手を変え品を変え、当てはめるものではなく、自分でたどり着いた人物を自分で生きればいいとしたら。最初から正解も、間違えもなかったとしたら。…作っていいとしたら。

「大和さんさっきから大丈夫か?無理やり連れ出したの根に持ってる?」
「…持ってねぇよ。なあ、ミツ。俺にもおにぎり握れっかな」
「いつも握ってんだろ」
「ちなみに具はゲテモノ」
「……それ作ってどーすんだよ」
「そしたら最初にミツに味見させてやるよ」

言った後に口元を緩ませれば、「いらねーよ!」と気前のいいツッコミが大和の背中に入った。





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