泡にもなれぬ人魚の末路

 伴音は動かしにくい首を動かして後ろを振り返った。それは腕をふり上げていて、あ 殴られる。そう思ったときには手遅れで。誰かが逃げろと叫んだけど無駄で。
 雑作もなく伴音の身体は弾けとんで廊下の壁に叩き付けられた。頭を打ったのかぐわんと痛い。全身打ち身だし、何かが頬をどろりと伝った。衝撃で定まらない目を彷徨わせると、恐怖したみんなの顔が見えた。
 全員、身体硬直して叫ぶことも逃げることも出来なかった。ただ、ゆらりと一歩一歩ゆっくり近付くそれに、死までのカウントダウンをしていた。伴音は右手を頬に当てて、指に血をつけた。そして、それとみんなの間に割って入った。みんなを背に庇って、まっすぐそれと対峙した。

りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん!」

 早九字と呼ばれるやり方で、九字を縦横に切ると明るくて清らかな光が化物を阻んだ。その隙に伴音は右手を突き出し詠唱を始める。

君臨者くんりんしゃよ!血肉ちにくの仮面・万象ばんしょう羽搏はばたき・ヒトの名をかんす者よ 焦熱しょうねつ争乱そうらんへだ逆巻さかまき南へとを進めよ 破道はどうの三十一 赤火砲しゃっかほう!!」

 右手の手のひらに集結した赤い光が、光線のように化物に向かっていった。化物は廊下の端まで吹き飛んだ。しかし決定的なダメージには至っていないようだった。やはり自分では歯が立たないか、と伴音は唇を噛み締めた。
 頬をばちんと叩いて気合いを入れる。まだ、出来ることはある。ワイシャツの胸ポケットから札のような紙を取り出してそれを口に咥えた。神に祈るように両手を合わせて念じる。両手を離すとそこから一振りの刀が現れる。
 それをつかみ取り、鞘から一気に抜き取った。それと同時に抜け殻になった札と鞘は邪魔になるので後ろへ放った。鞘は誰かが受け取ってくれたようだった。

「大丈夫、私がなんとかするから、絶対に出てきちゃダメだよ」

 その時仁王はああ、この顔だ、と思った。伴音のいう大丈夫には何故か力があった。恐怖で凍った胸をとかす、温かさが。
 伴音は縛道ばくどうで化物の身体を鎖で拘束すると、窓から飛び降りた。高さは三階。伴音は吊星つりぼしという鬼道を使ってワンクッション設けて地面に着地した。伴音が鎖を握っているので化物は窓をぶち破って落下した。
 化物は腹を立てていて、伴音に殺気を放っていた。

「おのれ小娘がァ…」
「私はロッジに所属する呪術師、区分は死神。名は祇夕。貴方を斬ります」

 切っ先をまっすぐ向けて、伴音は神経を研ぎすませた。不思議と伴音の瞳には恐怖が全くなかった。
 伴音は刀、そして鬼道を駆使して戦った。しかし、化物は強く、伴音は体力の消耗が激しかった。
 一方三階に残された一同は呆然と伴音が戦うのを見ていた。誰も事態を飲み込めている人間が居なかった。
 仁王はさっきまで繋いでいた手を眺めて、このままではいけないと思っていた。伴音が立ちふさがった時、自分より遥かに小さな背中の頼もしさに安堵した。廊下を見ると点々と赤が落ちているのが見えた。仁王の視線に気付いて、いつの間にかそれに全員が注目していた。
 手を離したせいで倒れ、化物に殴られて傷付けられた。まっすぐ化物と向き合うしゃんとした姿勢。戦いの場に降りるのは怖かった。けれど、そうしなければならない気がして、全員で向かった。

「どうして来たの!?」

 悲痛な叫びを受けて、全員足がすくんだ。そうだ、自分たちは何にも出来ない、無力な重荷でしかない。足手纏いだと思い知った。化物と伴音の力の差はなかった。対等で、ゆえに平行線をたどっていた。化物は伴音に隙が生まれたことにニヤリと笑みを浮かべた。素早くくうを切ってみんなに迫った。瞬歩しゅんぽで追いかけて、とっさに庇うようにした。

「ハハハ、愚かだねぇ、死神とやら。無力なソイツらがそんなに大事かい?でも、右腕を狙ったのに、躱すとはやるじゃないか」

 伴音はその場でうずくまっていた。一瞬で脂汗が浮いてきて顔から首へ流れていく。悲鳴を上げないように噛み締めた唇が切れて血がにじむ。押さえきれなかった声がうめき声になってその場を支配した。

「う、腕が……」

 伴音の左腕が、肘から下が、なくなっていた。


160331
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