終着ハッピーエンド

『ごめん、ちょっと仕事が長引いて遅れそう』

スマートフォンがそんなメッセージを受信したのはつい10分ほど前のことだった。『わかった、おつかれさま』決して文字には滲まない僅かな落胆を味わいつつ『先はいってて』続けられた文字の通り足を踏み入れた、馴染みのカフェの窓際の席。どのくらい待つかなぁと思いながら注文を済ませて、私は小雨が降りしきる窓の向こうへ視線を投げた。

今日は午後から休みが合うということで、刀也とデートの約束をしていた。付き合ってからもう6つの年をまたいだ私たちは社会人として自立に励んでいる最中である。これから共有するのは互いに忙しく日々を送る中でなんとかすり合わせた数時間というわけだ。
そしてその数時間の最端で孤独を噛み締める私はというと、お冷を口に含みながらこれまでの刀也とのあれこれを振り返っていた。私たちはこの6年の間、時には喧嘩もしつつ、でも基本的には円満にやってきたつもりだ。けれど最近は奔走の中でなんとなく刀也との間にズレが生じてきているような気もしていた。特に学生の時と比べると、どうしてもすれ違うものがあるというか。今日も久しぶりに会えると思ったらこれだし。無論仕事で仕方ないということは百も承知で、それに怒るほど私も初心ではないから良いのだけれど。ただただ、かみ合わない何かをどこかで感じて少し胸が締め付けられるだけ。

木製テーブルの隅っこで3つの空席に囲まれながら思考回路の渦に沈む私を不意に小さな音が現実へ引き戻した。顔を上げれば店員がカップを差し出してくれていたようで小さく会釈する。受け取った温かさを両手で包み込んだ。外の寒さのせいか一連の思案のせいか、手元で揺れる白い湯気がやけに心へしみ込んだ気もした。
白いもやの出所、厚みのあるコーヒーカップにこじんまりとおさまるのはカプチーノである。口に含めば柔らかな口当たりの中で些細な苦さが駆け巡った。この苦みを心地よいものと感じ始めたのはさていつからだっただろうか。昔はカフェに入ったってソーダやココアしか飲めなかったのに、こうやって少し大人になったような気分を味わっている。

ほろ苦さを抱えながら見つめる窓の向こうでは少し雨の強さが増したようだった。朝はお天気だったのに秋の天気が変わりやすいとはよく言ったものだ。
刀也、傘持ってるかな。
何の脈略もなく思考がどうしてもそちらに飛んでしまうのは長年培った癖と表した方が良いのかもしれない。すっかりこの身に沁み込んだ彼の存在に苦笑しながらカップを置いて頬杖をついた。映り込んだガラスの向こうでは銀杏並木がその葉を落として震えている。数多のレインブーツに踏まれる落ち葉たちはそれでもつやつやと鮮やかな色彩を放っていた。雲隠れした太陽の代わりに、繊細な水の糸がアスファルトに弾ける。そんな光景を見て、つい。

まるで正反対だな。

なんでもない秋の終わりを切り取って浮かんだのはそんな感想だった。思い浮かべるのは、刀也と付き合い始めた日のこと。今でも鮮明に思い出せる夏の初めの日。確か私は彼と一緒に帰りのバスを待っていた。騒がしく響く蝉の声と、真っ青に透ける空。不快感を伴わないギリギリのところに位置する空気がまだあどけなさの残る二人を包み込んでいたはずだ。普段通りのやり取りの中、差し込まれた緊張感を未だに私の心は覚えている。『あのさ、』『なに?』『好きなんだけど』お互い時刻表を見つめたまま、でも視界の端を掠める彼に意識を奪われながら。
『よかったら付き合わない?』
どんなときでも揺らぐことのない彼の少し硬い声色を、私はあの時初めて耳にしたのだった。


それから、はや6年である。
『剣持くん』という呼称はいつからか『刀也』へと形を変え、初々しい初恋は日常に馴染んだ。積み重ねた時間は確かな重みを伴っているけれど、一方で様々な変化とも切り離せない。それは上手に付き合えるようになった苦さだったり、脱ぎ捨てた制服だったり、踏み越えた子供と大人の境界線だったり。なんなら変わらないものの方が少ないんじゃないだろうか。ガラス越しに聞こえる微かな雨音に押されて時間の中に内包されたあれやこれを思い浮かべるように息を吐いた。
と、ちょうどそのとき。物思いに耽る私の思考を、切り裂くように影が一つ。

「ごめん、お待たせ」

耳に馴染んだ声が聞こえて反射的に顔を上げれば、仕事終わりらしくシンプルなシャツにカーディガンを重ねた彼がこちらを覗き込んでいた。「ん、ぜんぜん」刀也は急いできたのか少し息が上がっている。この雨模様のせいか襟のあたりに水滴が目立った。

「完全に油断してたわ。急に降られちゃった」
「秋だからねえ。大丈夫?冷えてない?」
「うん、余裕」

お冷をもう一つ持ってきてくれた店員へ「キャラメルマキアートひとつで」と告げた彼が、ふぅと一息つきながら向かいの席へ腰かける。刀也のお子様舌はこの6年で変化を遂げなかった貴重なもののひとつかもしれないな、なんて思っていたら「苦味への敏感さを失ってないだけだから」先手を打つように弁解が放たれた。「何も言ってないのに」「目が語ってんだよ」けらけらと笑い声が机上に満ちる。けれど、いつも通りの軽口を挟みながらも私の心はどこか沈んだままだった。と、いうのも。

「お待たせ致しました、キャラメルマキアートです」

店員は可愛らしい名前の飲み物を私の前に置こうとして、すんでのところでカプチーノの存在に気づく。「失礼いたしました」刀也の手元に白いカップが到着し、再びテーブルに二人のみが取り残された。多分このあたりがタイミング。「それで、話って?」いたって平常を装いながらそう投げかけた。

そう、今日はなんてことのないデートではない。事前に『ちょっと話したいことがあるからいつものカフェでどう?』などという連絡をいただいているのである。6年という時間を積み重ねているにもかかわらず、改まって話があると言われると怯えてしまうのはどうしてだろう。口の中に広がる苦みを噛み締めながら不安に揺れる心を鎮める。こんな苦みにも耐えられるようになったのだから、話の一つや二つで動じない人間になりたいものなのだけれど。でもむしろ、積み重ねているからこそ怯えてしまうのか。

初恋が叶わないというのは世間の傾向でしかなくて、個々の事例に目を向けてみれば必ずしもそうとは限らない。でも同時に、叶った初恋がいつまでも瑞々しいわけでもないのだ。いつか決死の覚悟と緊張感をもって繋いでいた手は今や当たり前に触れるものになったし、二人でいくつかの線も飛び越えて久しい。未だにふとした瞬間の笑みだとか、いつの間にか大人びた眼差しだとか、すぐに照れ隠しをするところだとか、胸がときめくことも多いけれど、それ以上に安心感や落ち着きを感じることの方が多くなっていた。
私はその変化を心地よいものとして受け入れている。けれど果たして刀也はどうなんだろう。もしかしたら――彼はもうこれを恋とは認めていないのではないか。無論それは、明確な根拠など何もない推察である。ここ最近の生活のズレや、明らかに減少した二人の時間、物理的な変化が静かに私の不安に拍車をかけているだけ。そんな中、話があるだなんて言われてしまって、そうは言っても静かにしていたはずの不安がざわめきだしたのだ。

「あー、まぁ話っていうか相談なんだけど。これからのことについて」

私の動悸を知ってか知らずか、カップに口をつけながら言葉を吐き出す刀也。もう大分冷めてしまったカプチーノとは違って彼は今甘さで満たされていることだろう。こんな取るに足らない対極が、また少し私の心を冷やす。コーヒーカップの水面へ視線を落としながら「うん、なに?」少し硬くなってしまった返答に、刀也が怪訝そうな顔をした。

「なんか変なこと考えてないよな」

彼のこう、やけに人の機敏に聡いところは本当に厄介である。まさか貴方に冷められたのかと怯えていましただなんて白状するわけにはいかないので、「なにのことだか」すっとぼけてみるも無駄らしかった。こちらを訝しむような視線が微動だにしない。そして一瞬の均衡が保たれたのち、「別にそんな緊張するようなこと言おうとしてないからな、変な覚悟きめるなよ」こちらが驚くほど丁寧に、この心から不安を拭い去っていくしかめっ面。その眼差しについ、固まった心が解けてしまった。ぽろり、本音がこぼれ出る。

「……刀也がかしこまって話があるとか言うから」
「やっぱ勘違いしてるんじゃん」

頭を抱えた彼が呆れたようにため息を吐いた。その様子を見る限りどうやら私の危惧は本格的に大外れだったようだ。変に入っていた力がすっと抜けていく。「別れ話じゃないんだ」「なわけあるかよ」食い気味に否定されてどうしようもなく安心してしまった。
でも、それなら一体どんな話があるというのか。急かすように彼を見つめて続く言葉を待っていると「そうじゃなくて相談ってのは、」ここで言い淀むように口をつぐんだ刀也。数秒の逡巡を挟んだのち、覚悟を決めたように口が開かれた。

「一緒に暮らすのってどう思う」

そしてぎこちなく、この場に落とされた衝撃の波。

「……えっ」

驚きのあまり一音を発するに留まった私から刀也が目を逸らす。甘ったるそうなティーカップに口をつけたのち「ほら、お互い忙しくて中々時間も合わないし。毎回会う約束取り付けるのも一苦労じゃん。今後も暫くはこの環境が続くだろうし、帰る家が一緒なら結構合理的じゃない?家事負担も分け合ったら効率いいし、なんなら家賃まで抑えられる」言い訳のように早口で回された一節。その勢いのまま早々にカップを空にした彼は「もちろんまだ早いと思うかもしれないからそこは任せるけど」と締めくくった。
与えられた情報量に対して私としてはただただ衝撃の一言である。こちらは先ほどまで刀也の気持ちすら不確かなものとして扱っていたというのに。自身を落ち着かせるように深呼吸を繰り返し、なんとか事実を受け入れる。えぇと、だから。別れ話とかそんなものとは本当にかけ離れていて。

「つまり……同棲のご提案で、いらっしゃる?」
「まぁ、一旦はそう。……その先も考えてないわけじゃないけど」

どこか気恥ずかしげに言い切った刀也の声がぐるりと脳内を回った。「そっちはまた改めて言わせて、近い内に」帰る家が一緒になる、その先。まだ明確に示されたわけではないけれど、刀也が私との時間をこの先も思い描いていることだけは確かでなんだか泣きたくなってしまった。「……刀也は私のこと好きなんだね」感慨深く、大きな実感を伴って呟けば「なんだよ改まって」きょとんとした顔で当たり前のようにツッコミを放たれる。

「じゃなきゃ焦って同棲とか言い出さないでしょ」
「焦ったんだ」

指摘すれば「そりゃ、多少は」墓穴を掘ったような顔をしながら口を開いてくれる彼。

「最近明らかに会う頻度落ちてたし、男の同僚多いとも聞いたし」
「へえ?」
「……正直、自分に自信はある。男として負ける気は微塵もないけど、時間のすれ違いが原因とか言われたら話が違ってくるわけで」

だから早期解決に臨もうとしてる、と。どうしてか刀也の顔にはこれ以上ない仏頂面が浮かべられた。「あーめっちゃかっこ悪くないかこれ?全然ここまで言う気なかったんだけど」どうやら時間差で後悔しているらしかった。頭を抱えるその姿を「ばかだなぁ」そう言って笑い飛ばす。私も刀也も、どうやら要らぬ心配のしすぎだったらしい。お互いに積み重ねた時間を甘く見すぎていた。

「私が刀也以外目に入るわけないのにね」
「……よくそんなこと堂々と」

そっぽを向いた刀也が誤魔化すようにお冷を口に含んだ。彼が照れを隠すときの癖である。そして私の目を見ないまま、「最近なんか不安そうだったでしょ」見透かされていたらしい図星をついてくる。「ばれてたか」図星と言えどもう微塵も痛くなかった。むしろ肩の荷が下りたような、胸の底から温かいものがあふれるような感覚に笑みが零れる。

「そこに関してはお互い様だから人のこと言えないけど。解消できそう?これで」
「さっきまで何の話されるんだろって顔面蒼白だったけど」
「ごめんって」
「でももう大丈夫」

だから、暮らしてみようか。一緒に。
そう口に出してみると私までなんだか恥ずかしくなってしまった。満足げに微笑んだ刀也から視線を逸らして手元のカップを空にする。ほろ苦さが現実味を与えてくれて、幸福感が際立ったような気がした。なんとなく感じるこそばゆさを誤魔化すように、目のやりどころを窓ガラスへと設定してみると「――あ、雨上がった」先ほどまで強弱をつけてぱらついていた水の糸が引き上げられていることに気づいた。木漏れ日のような陽が差して、雨に打たれた鮮やかな葉たちを暖色で包み込んでいる。気づけば刀也も外を見遣っており、「思い出すなぁ」頬杖の上からしみじみと声が紡がれた。何のことかと聞き返せば「告白した日も雨上がりだったから」彼方の記憶を愛おしむように目を細めて言う彼。一方、私はその言葉に首を傾げた。

「あの日、晴れじゃなかった?」

ついさっきもそうだったし、いつも刀也の告白を思い出すときは快晴がセットだったはずだ。その証拠に、眩い陽射しから私たちを匿うバス停の情景がありありと思いだせる。刀也は私の言葉に少し考えたのち、「あぁそっか」なにやら納得したように笑った。

「告いったときは晴れてたけど、その前。帰りがけに、夕立が10分以内に晴れたら告白しようって決めてたんだよね」
「……初耳」
「言ってなかったか」

6年越しに明かす新事実、とおどけてみせる刀也。彼からしたらあの日は雨の日だったんだ、と面白くなった。同時にどうしようもない温かさで埋め尽くされる。
あの日を境に関係が変わって、6年も時間が経って、お互い別の方向を向くことも増えてきて。なんなら始まりの日の天気だって異なる印象を持っていて。でもなんてことのない秋の終わりに、ふたりして同じ日のことを思い出している。人を愛しいと思う理由なんてそれで充分じゃないか。だから私たちの初恋は、これからもきっと大丈夫。

「ま、そうと決まったら早めに物件見てみよっか」
「家に挨拶の方が先じゃない?」

慣れた苦味も変わらぬ甘さも飲み干して、顔を突き合わせる私たち。いつかのバス停から続く延長線上で、雲間から覗いた太陽が見守るように温かな光を注いでいた。

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