彼女のいない日常
莉子と別れてから、数ヶ月が経った。
幸か不幸か、神室町を騒がしていたモグラ事件を追っていたこともあって、立ち止まって浸る余裕もなく日々は慌ただしく過ぎていき季節がまたひとつ、変わろうとしていた。
漸く落ち着きを取り戻しつつある日常の中で、ふと財布に入れっぱなしだった莉子の部屋の合鍵を取り出した。狐みたいな犬が、心なしか恨めしそうに俺を見ている。
「ター坊」
名前を呼ばれて顔を上げると、今日はとっくに帰ったと思っていた海藤さんが出入り口で腕を組んで立っていた。その後ろから、珍しい来客が顔をのぞかせる。
「さおりさん…?」
「突然お邪魔してすみません。八神さんにお渡しするものがあって」
立ち上がりさおりさんを中へと招き入れると、彼女の手には紙袋が提げられていた。それをずいっと目の前に差し出され、反射的に受け取る。そして中を確認し、ひゅっと息を呑んだ。
「莉子さんから、預かった物です」
紙袋の中身は、莉子の部屋に置いていた俺の私物だった。大した量ではない。それでも、莉子の家で過ごした時間まで突き返されたようで痛む権利のない胸がずきりと唸った。
「あー、と…。何か、言ってた?」
「いえ。…ただ莉子さんは、別の街へ引っ越しました」
「えっ」
予想外の言葉に、思わず机の上に置かれた合鍵を見る。いつかこれを返す日が来るのだと、どこか最後の切り札のように考えていたことを無自覚に思い知った。そんな日は、最初からなかったというのに。
せめて何か一言ぐらい言ってくれても良かったんじゃないか。そんな自分勝手な思考が一瞬過り、頭を振った。あまりにも、都合が良すぎる考えだ。
「これは当人同士の問題なので、余計な事を言うつもりはありませんが…。あの子はとても真っ直ぐに八神さんのことが好きでしたよ」
「…うん。それは、ちゃんと知ってるつもりだよ」
「…そうですか」
まだ何か少し言いたげにしたものの、さおりさんはそれ以上何も言うことなく事務所を去っていった。まだ物騒だから、と海藤さんはさおりさんを送るため一緒に出ていく。
静かになった事務所で、深いため息を溢した。今後偶然すれ違うことも、いつか笑い話になることも。そんな日は、この街では起こることはないのだろう。
乱暴に合鍵を手に取って、ゴミ箱に捨てようとして動きが止まる。──捨てれるのか、これを。暫く考えて、結局引き出しの奥へと仕舞った。いつか、痛む心が消えたなら。そうしたら、思い出と共に捨てよう。
今はまだ、その勇気が湧かない。
*
一人で事務所にいると余計なことを考えてしまいそうで、酒でも飲もうとふらりと夜の街を彷徨った。騒がしいこの街は鬱陶しくなる時と、寂しさを埋めてくれる病的な優しさを持ちあわせている。
いつもとは違うバーで少しキツめの酒を煽っていると、「八神さん?」と黒い髪の女に声をかけられた。綺麗な顔をしているが、その顔に見覚えはない。考えが顔に出ていたのか、女はくすりと小さく笑った。
「有名よ。八神探偵事務所」
そのまま流れるように隣に座った女は、「乾杯してもいい?」とまだ琥珀色の酒の入ったコップを傾けた。特に拒否する理由も思い浮かばず、一人でごちゃごちゃ考えるよりは都合がいいだろうとそのコップに自分のコップをカツンと当て無言で同意する。
女は嫌味のない上品な仕草で酒を飲み、軽やかな口調で楽しげに話す。その赤い唇は艶やかで、他の席から男たちの視線が集中するのをどこか他人事のように感じていた。
酒が進み当たり障りのない大人の会話を繰り返し、やがて女が挑発的な笑を浮かべる。
「ね、ちょっと酔っちゃった。どこかで休まない?」その言葉の意味が分からない程、馬鹿ではない。
安っぽい近くのホテルに入り、シャワーも浴びずに酒の入った頭で赤い唇に噛み付いた。互いに服を脱がしながらベッドに傾れ込むように倒れて、甘い香水の香りと一緒にシーツに広がる黒い髪をぼんやりと視界に映す。
──なんで、黙って去っていった?
感じる憤りは、あの日引き止める事もできなかった自分への苛立ちと、それでもせめて何か声をかけてくれても良かっただろうという、どうしても消化できない莉子への苛立ち。それらを誤魔化すように、女の喘ぐ声を聞きながら無我夢中で腰を振った。
まるで体と頭が別々の生き物かのように。盛ったガキみたいに動く体と、冷静な頭が分離して冷ややかに情景を眺めている自分がいる。散らばる黒い髪。赤い唇。艶やかな声。豊満な体に指先まで手入れの行き届いた、誰が見ても完璧な女。それなのに、ずっと頭に莉子の顔が思い浮かぶ。
少し癖っ毛のミルクチョコレート色の長い髪も。薄くピンクに色づく白い肌も。キスを強請る時、下唇を噛む癖も。濡れた瞳で柔らかく微笑む姿も。笑ってしまうくらい容易く脳裏に浮かぶのに。彼女はもう、ここにはいない。
「 」
言葉にならない声で、名前を呼んだ。
「ここ、禁煙よ」
カチッとライターの火をつけてから、女が言った。そういえば、名前も聞いてなかった気がする。視線を上げると先にシャワーを浴びていた女が口紅を塗り直しているところだった。無言で煙草を元に戻して、手持ち沙汰になった手を無意味に捻ってみる。なんとも言えない、気まずい沈黙が降りた。
ふぅ、と小さなため息が聞こえたと思えば、女が腰に手を置いて俺の前に立った。ベッドに座ったまま見上げると、女が口元だけで薄く笑っている。
「八神さん、忘れられない人がいるんでしょ」
言われた言葉に、どきりと心臓が強く鳴る。ポーカーフェイスが得意だったのに、あっさりと顔に出てしまった俺に女が呆れたように首を振った。
「私、面倒なのは嫌いよ。こんな風にその場だけでも楽しめたらいいって思ってる」
でも、と女の真っ直ぐな視線が俺を貫いた。スローモーションの様に女の振り上がった手を、動かない頭が見送る。ぱしん、と乾いた音と共に右頬にピリッとした痛みが走った。
「馬鹿にしないで。他人の代わりに抱かれるなんて、真平ごめんだわ」
そう吐き捨てて、女が俺の隣を通り過ぎて部屋を出る。あまりにも情けないこの姿を、一体誰が笑わずにいられるのか。もう一度煙草に手を伸ばし、火をつける。ふーっと煙を吐き出して、そういえば禁煙だったと思い出すが、今更動くのもだるくて煙草を咥えたまま項垂れた。
「何やってんだ、俺…」
*
「よう、色男」
「げ、海藤さん」
夜も更けた神室町は本領発揮と言わんばかりにあちこちで飲み屋の明かりがついて、眠ることを拒否する体を甘やかしてくれる。今度は通い慣れたテンダーで一人飲み直そうと店に入ると、店の奥で座っていた客──海藤さんと目が合った。
最早神室町の飲み屋で、海藤さんに秘密ごとを作るのは不可能だ。俺が先の飲み屋で何をして、今まで何をしていたのかなんてすっかりお見通しらしい。
ほれ、と未使用のお絞りを渡されれば言い訳を考えるのも面倒くさく、大人しく受け取った。大した力じゃなかったのに、冷たいおしぼりを頬に当てると熱を持っていた事を自覚する。
「珍しいじゃねぇか。アフターケアもバッチリなのがウチの事務所の長所だろ?」
「海藤さん、俺をいじめて楽しい?」
「自業自得だろ。未練たらたらって顔で夜遊びなんてガキがすることだぜ」
既に酒が進んでいる海藤さんはヘラヘラと笑いながら平気な顔で俺の傷口に塩を塗っていく。別に優しくしてほしいなどと思わないが、今は少しだけ海藤さんの真っ直ぐな性格がグサリと突き刺さっていく痛さがある。
言い返す言葉も思い浮かばず口をへの字に曲げて酒を煽る俺の手元に、海藤さんが小さな箱を置いた。見覚えのあるそれは、あの日買った指輪だった。てっきりあの時の乱闘騒ぎで失くしたと思っていたが、ずっと海藤さんが持っていたらしい。
「お前が入院してる間に助けた女の子が持ってきてくれてな。もっと早くに渡そうと思ってたんだが…色々あったろ」
「そっか…。別にいいよ。どっちにしろお役御免だし」
あの時点でもうこの指輪は役割を終えていた。もっと早くに手元に帰っていたところで、結末は変わらなかっただろう。血が滲んだ外箱を開けると、ピンクゴールドの指輪がキラリと照明に反射して輝いた。合鍵と同じく、またこれも引出しの奥行きか。無意識についたため息は思ったよりも重かった。
「いいのか? このままで」
「いいって、何が?」
「分かってんだろ。さおりさんに言えばあの子の住所だって分かる。行動に移そうと思ったらいつでも動けるはずだ」
「冗談。もう終わった話だよ」
──嘘だ。
本当は、痛いくらいに分かってる。莉子のことが忘れられないことも。海藤さんの言う通り未練たらたらなことも。他の女を抱きながら、頭に浮かぶのは莉子の温もりだけだと言うことも。それでも、今更莉子を追いかける資格なんて俺にはないことも、充分すぎるほど分かってるつもりだ。
「ター坊、お前はもう十代のガキじゃねぇんだ。そろそろ虚勢張って生きなくても充分強くなったろ」
諭すような海藤さんの言葉に、無言で酒を飲んで拒否の姿勢を示す。やめてくれ。折角の俺の決心を、揺るがすようなことを言わないでほしい。
「折角弱い部分も好きだって言ってくれる。分け合おうって言ってくれる人がいる。何でもかんでも一人で完結できたら人間、パートナーなんて必要ねぇだろうよ」
それでも。
今回のモグラの件で、ズタボロになった自分を見て改めて思った。こんな姿、莉子が見たらきっと悲しむだろうと。幸せになってほしいし、幸せにしたいと思うのに。俺といれば莉子から幸せを遠ざけてしまいそうで、それならばいっそ俺じゃなくてもいい。誰か別の、もっと普通で穏やかで平和な日々を過ごせるような相手が莉子の隣にいたならば、それでもいい。
無言のまま目を合わせない俺に、やがて海藤さんは呆れたようにため息をこぼした。「頑固だねぇ」たった三歳しか変わらないはずなのに、どこか遠い大人の姿で酒を飲む相棒を横目で見て、俺もそう思う、と心の中で相槌を打った。
だけどもう、全部今更なんだ。