ビターステップ


 
 ──ガチャ、と扉が開く音がした。
 スマホを触っていた手を止めて玄関へ向かうと、八神さんが俯いたまま無言で立っている。この僅かに開いた距離からでも分かる、全身の傷。思わず何かを言おうと口を開きかけて、ぐっと堪える。そのまま、何も言わない八神さんの手を引いてリビングへと迎え入れた。

「服、脱げる?」

 棚から救急箱を取り出しながら問いかけると、八神さんは無言のまま上半身の服を脱いだ。そこには思わず目を逸らしたくなるような暴行の痕があちこちに散りばめられていて、泣きたくなる気持ちをなんとか抑え手当することだけに集中する。きっと痛くないはずなんてないのに。八神さんは驚くほど静かだ。

「……莉子、」
「うん?」

 不意に八神さんに名前を呼ばれ、手当していた手を止めて視線を上げる。なるべく優しく微笑むと、八神さんの無表情だった顔が小さく歪んで、暗い瞳が僅かに揺れる。大きな傷だらけの手が、強く私の手を握った。
 
「抱きたい」
 
 ポツリと落とされた言葉に覇気はなく、本来ならそこに含まれているであろう欲の色も皆無だ。まるで迷子の子供みたいに不安そうに、八神さんの腕が腰に巻きついてくる。
 私はバレないように深く息を吸い込んで、赤い血が滲むほっぺたを包み込んだ。
 
「うん」
 
 
 
 
 
 
 
 浅い呼吸を繰り返し、いつもより少し乱暴な愛撫にも逆らうことなく全身を委ねた。荒々しい口付けに舌を絡ませながら、ぎゅっと首に手を回して抱きつく。

 いつもなら丁寧に解してから挿れてくれるのに、まだ少し余裕のない私のナカに八神さんのモノが入り込んでくる。八神さんはまるで何かに追われるように、必死に痛みを我慢するような顔で私を抱いていた。

 もしもここで今私が苦しい声を出したなら、八神さんを酷く傷つけてしまうような。そんな気がして、口を手のひらで抑えて必死に声を我慢する。
 
「   」
 
 何度も、何度も、何度も。
 八神さんが私の名前を呼ぶ。確かめるように、求めるように、幾つもの赤い花を胸や首筋に付けながら、痛いくらいに手を握って。

 私は声とも息とも言えないものを吐き出しながら、名前を呼ばれるたびに締めつけられる心を誤魔化すようにぎゅうっと大きな背中に手を回して全身で八神さんを抱きしめた。
 
 
 
 ──ター坊を、頼むわ
 
 八神さんが来る数分前、久しぶりに海藤さんから電話があった。いつもの陽気な彼の声はなく、重く沈んだ声に一瞬三年前の出来事がフラッシュバックする。けれど耳を傾ければ聞こえてくる内容に、何を言えば良いのか分からず震える声でただ相槌を打つことしか、私にはできなかった。

 何か事件を追って異人町に来ていたことは知っていたけれど、探偵の守秘義務とやらをしっかり守っていることは三年前の頃から理解しているつもりだし私から尋ねることもなかった。その義務を少しだけ破って、海藤さんは探偵としてでも相棒としてでもなく、八神さんの兄貴分として、私に連絡をくれたのだ。

「詳しいことは言えねぇが、今俺らが追ってる事件の関係者が、さっき殺されてるのを発見してな。その直前にもター坊は酷い拷問みたいなのも受けちまってよ」

 動揺する私に、海藤さんの低く落ち着いた声が響く。

「多分、そっちに行くと思うんだわ。酷ぇ事言ってるとは分かるんだが…ター坊が何をしても、受け入れてやってくれねぇか」

 頼む、と続けて言われた言葉に、なんとなく電話の向こうで海藤さんが頭を下げたような気配を感じた。本当に、時々羨ましくなるくらい二人は固い絆で結ばれてるんだと思い知らされる。
 そして海藤さんの電話を切った数分後、八神さんは海藤さんの予言通りにやってきた。もしかしたら、海藤さんの電話がなければ私はまた八神さんを責めていたかもしれない。そうしたらきっともう二度と、八神さんは私にこんなにも傷ついた心を晒してなんてくれなかっただろう。
 
「…隆之さん」
 
 大丈夫だよ、と伝えたくてふわふわの頭を抱え込む。激しい動きで上がった息と共に、この五月蝿く波打つ心臓の音が八神さんにも聞こえるだろうか。
 
 私は生きているよ。
 あなたを置いて、いなくなったりしないよ。
 
 上手く言葉にできないこの感情が、八神さんにも伝わっていればいい。ぎゅっと抱きしめた胸元から、涙を堪えるような小さな啜り声が聞こえた。そして今までで一番強い力で、抱きしめられる。

 その時に私は初めて、八神さんの弱い部分に触れたような気がした。手から、目から、声から、八神さんの痛みがじわりと熱を含んで、全身に広がっていく。
 
「泣いていいよ」
「…俺には泣く資格なんてないよ」
「じゃあ、隆之さんが泣けないなら代わりに私が泣いてあげる」
 
 
 だから、泣きたくなったらいつでも私に会いにきてよ。
 
 
 
 
 
 
 いつもの麻薬みたいに甘い空気は広がらなかったけれど、私たちは裸のまま抱き合って狭いベッドに横たわっていた。色々聞きたいことは山ほどあったけど、きっと随分と色んなことが八神さんの身に降りかかっていたんだろう。珍しく、静かな呼吸を繰り返して八神さんの方が先に眠りについた。

 程よく引き締まった体には、まだ手当てしきれてない無数の傷たちが色濃く存在を示している。拷問みたいなものを受けたと、海藤さんは言っていたけれど。きっとそんな目に遭っても八神さんは泣き言一つ言わなかったのだろうと簡単に予想できた。だからこそ、不謹慎ではあるけど弱い心を私に見してくれたことが、とても嬉しい。

 性欲を満たすというよりは、ただただ存在を確かめるように荒々しいセックスだったけれど、それで彼の気が済むのなら私はいくらだって傷つけられたっていい。八神さんになら、何をされたっていい。
 そこにある確かな愛情を、私はもう知ってしまったのだから。
 
 





 * * *


 翌朝、カーテンの隙間から漏れる陽の光に眩しさを感じて目を開けた。冬の冷たい空気がむき出しになった肩をヒヤリと撫でて、思わず目の前の温もりに縋り付く。人肌のじんわりとした暖かさが広がって、ゆるゆると重い顔を持ち上げた。
 
「…よかった」

 昨日の苦しそうな表情が消えた、穏やかな寝顔に安堵する。少しでも、八神さんの心は癒えただろうか。そんな事を思いながらそっと傷だらけの頬を撫でた。

 ──そこで初めて、自分の右手に指輪が嵌められている事に気がついた。

「………、えっ!?」

 驚きのあまりつい大きな声を出して勢いよく起き上がる。ピンクゴールドの可愛いシンプルなデザインのそれは、違和感なく私の指に収まっていた。天に掲げて暫く呆然としていると、背後でモゾモゾと動く気配がする。勿論、今この場でそれは八神さんしかあり得ない。

「……本当はあの日、渡すつもりだったんだ」

 寝起きらしい掠れた声に振り返り、指輪とその顔を見比べる。八神さんは困ったように笑って私の右手に嵌められた指輪の形をゆっくりとなぞった。

「本当に、今更だけど。折角の記念日を台無しにしてごめん」
「もしかして、記念日だから指輪を買ってくれてたの?」
「まあ…。こんな俺だけどさ、結構本気で将来のこと考えてたんだよね。これはその覚悟っていうか…」
「……うれしい」

 将来のことを意識していたのは、私だけだと思っていた。何度かさおりさんに相談したりして、ヤキモキしていたあの頃が懐かしい。ぎゅっと指輪ごと右手を抱きしめると、八神さんから名前を呼ばれる。

「なあに?」
「…ありがとう。…その、色々と」
「うん」
「海藤さんから、何か聞いてた?」
「……少しだけ」
「そっか…。あのさ、昨日の今日でこんなこと言うのも気が引けるんだけど。まだ事件は終わってなくて。多分、もしかしたら今よりもっと酷い怪我をすることになるかもしれないんだけど」

 ゆっくりと、言葉を選ぶように八神さんの口が動く。

「俺は絶対、負けない」

 昨日の弱々しかった瞳と違って、今はその目にギラリと光る闘志のようなものが見える。何かが、八神さんの中でも変わったのかもしれない。

「今度こそ絶対、一人にしないから。俺を信じて欲しい」

 真剣な目で話す八神さんに、何て返すべきか悩む。それほど危ない仕事なのかな。昨日の時点で普通とは程遠い怪我を負っていたのに、それよりも酷い未来があるかもしれないなんて。
 三年前、八神さんと別れる決意をした日の事を思い出す。

 自分の痛みには無関心で、耐えることばかりを選んでいる背中を見ることしかできなかった日々。その背中に声をかけても届かなかった虚しさ。それでも、彼の中に確かに存在する正義感を好きだという気持ち。その間に揺れ動く自分の感情に、自信が持てなかったこと。
 
 だけど、今なら分かる。

 あの時は八神さんの意識の中に私がいるのか不安だったけれど、今は違う。
 私を大事に思ってくれている事、私のために生きたいと思ってくれている事。泣きそうになったら、隠さず私に会いに来てくれた事。

 それらが私を強くしてくれる。今はまだ不安もあるけど、多分きっと、また泣いちゃうし無理だって思うかもしれないけど。けど、

「……責任、とってくれるんだよね」
 
 
 八神さんが隣にいない世界は、もう想像できないの。


「もちろん」

 そうやって、いつもの自信に満ち溢れた表情で八神さんが笑う。その顔をされると、こんなにも単純な私の心は安心する。どれだけ無謀なことだって全部どうにかなってしまいそうな、有言実行しちゃう八神さんが好きで。三年前よりも、確かな信頼が私達の間を結んでいた。

「これは仮予約、て事で…。ここは、空けといて」

 そう言って八神さんがキスを落としたのは、左手の薬指。その意味を理解して、ポロッと涙が勝手に溢れた。なんだか私、八神さんと再会してから突然涙腺が脆くなったみたい。

「今の仕事が片付いたら、一緒に指輪を見に行こう」
「……うんっ!」

 そんな幸せな約束に、おでことおでこをくっつけて笑い合う。
 これからもこんな日々が続きますように。
 

 そう願いながら八神さんの胸に飛び込んだ。
 
 
 
 
 
 
 * * *
 
 
 それから暫く、八神さんはとても忙しそうにしていた。
 会える時間は減ってしまったけど、右手に光るそれを見てはニヤニヤと緩んでしまう口元が自分でも笑っちゃうくらい単純で可笑しかった。職場でもそんな調子の私を見て、すっかり私の父親のような顔をして社長が八神さんを一度顔を見せに連れて来いと言う。ヤクザのような顔をした社長だけれど、八神さんならきっと上手く関係を築いてしまうんだろう。そんなことを思うと、胸が擽ったくて幸せなため息が溢れた。
 
 
「お疲れ様でした」

 冬の冷たい空が濃いオレンジの雲に覆われて辺りを幻想的な雰囲気で取り囲む時間帯。退勤した私は路地裏に入る珍しい人影を見た。あっ、と思いつい後を追いかける。素早く角を曲がった人影を見失わないように駆け足で追いかけると、角を曲がった瞬間口を塞がれ後ろから羽交いしめにされた。

「…んぅ、!?」
「…なんだ、お嬢か」

 一瞬ヒヤリと心臓が止まったけれど、口を塞いだ手はすぐに離された。それと同時に耳に掠めるのは、最近すっかり見かけなくなった桑名さんの声だ。

「び、吃驚するじゃないですか!」
「すまん。怪しいやつが後ろにいると思ってつい、な」
「つい、でいきなり背後取らないでくださいよ。…って、大丈夫ですか? なんか、やつれてるように見えますけど…」

 心なしかいつもより髭は伸びているし、目の下には隈ができている。最近見かけなかったのは、もしかして体調でも悪かったのか。思わず顔に伸ばした手は、桑名さんによってやんわりと阻止された。

「…聞いてないんだな、あいつから何も」
「え?」
「ははっ。流石正義のヒーローだ。益々気に食わない」
「…もしかして、八神さんのことを言ってます?」

 なんとなくそんな気がして問いかけると、桑名さんは無言でそっぽ向いてしまった。それはどこか子供みたいな仕草で、不機嫌に肯定してるようにも見える。二人が知り合いなのは確かだけど、やっぱり仲はよろしくないらしい。

「結局、仲直りできたんだな」
「あ、はい。その節は色々すみません…」
「まあいいさ。文字通り雨降って地固まるってやつだな」
「ほんっと、お世話になりました」

 そういえばあの頃、元彼のこともあって桑名さんの前でわんわん泣いてしまったことを思い出す。本当に、色々迷惑をかけてしまった。できればそのことも踏まえて八神さんと三人で会ってみたいけど、多分あの感じでは叶いそうにもないだろう。

「…いい奴だな、八神は」
「えっ!」

 二人がどうにか仲良くなれば、と考えていた時に桑名さんから意外な言葉が落ちて吃驚する。そういえば、三人で会った最後のあの時も、敵意をむき出しにしていたのは八神さんの方だったし、意外と桑名さんは友好的に思っているのかもしれない。僅かな期待をこめて桑名さんの目を見ると、とても穏やかな顔をして笑っていた。

「俺と違って道を踏み外すことは、あいつならしないだろう。気に食わないが、ああいう奴が本当は世間が求めているようなヒーローなんだろうな」

 どこか寂しそうな声色で、桑名さんが視線を落とす。二人の間に何があったのかなんて私は知らないし、多分それは聞いてはいけない事のような気がする。なんて言えばいいか分からなくて「桑名さん、」と言葉を投げかけると、ポン、と彼の温かい手が頭を撫でた。

「幸せにな、お嬢」

 そう言って、桑名さんが背を向けて歩き出す。その背中が、どうしてかやっぱり八神さんと被ってしまってぎゅっと胸が締め付けられた。なんの根拠もない勘が、桑名さんと会うのはこれが最後だと言っている。堪らず、小さくなっていく背中に声を張り上げた。

「桑名さん!!」

 狭い路地に、思ったよりも声が響く。桑名さんがぴたりと立ち止まって、振り返った。

「桑名さんだって、ヒーローでしたよ!」

 あの日、私を助けてくれたのは間違いなく桑名さんだった。忘れたくない記憶を、忘れなくていいと教えてくれたのも、ずっと抑えていた涙を流すキッカケをくれたのも。全部、桑名さんだった。

「私、桑名さんの優しさに救われましたもん。桑名さんがどんな人なのか、正直よく分からないけど…。けど、少なくとも私にはヒーローでしたよ!」

 果たしてこの言葉が桑名さんに少しでも響くのだろうか。それでもこれだけは、分かってほしい。知って欲しい。そりゃ八神さんは私にとっての一番だけど。だけどそれが、桑名さんを下げる理由になどなるはずがない。

 桑名さんはやっぱり寂しそうに、だけど優しく微笑んで。何も言わず今度こそこの場から姿を消してしまった。
 

 そしてそれが、私が桑名さんを見た最後だった。
 
 
 
 

 * * *
 
 

 
 桑名さんと最後に会ってから数日後、私は懐かしい感覚に襲われていた。何だかずっと、誰かからの視線を感じるのだ。振り返っても誰もいないのに、纏わりつくような視線。それも、気のせいかもしれないけど複数人のような気がしてならない。ただのストーカーとは違うような感覚に、不安で眠れない日々が続いた。

 流石に八神さんに相談しようと、夜の異人町で待ち合わせを約束する。最近はとにかく忙しそうな彼だったし余計な仕事を増やすみたいで気が引けたけど、私ももう限界だった。
 だけど、もう少し早く相談するべきだったと後悔するのには、少し遅すぎたらしい。
 
「よう、ちょっといいか」
「…なに」

 もう少しで待ち合わせ場所に着くというところで、見知らぬ男たちに取り囲まれる。派手な服装の、いかにもな悪そうな顔。最近異人町を歩き回っているRKという半グレたちだろうか。何をしているのかは知らないけど、少なくとも私みたいな一般人がこんな相手に話しかけられる筋合いは、勿論ない。

「そう警戒すんなよ、ちょっと質問に答えてくれればいいからさ」
「私が貴方たちの疑問に答えられると思えないけど」
「そうでもねぇよ。アンタ、桑名の女だろ?」
「…桑名さん?」

 半グレたちと桑名さんの関わりが思いつかなくて、首を傾げる。どうして私が知らない人間に桑名さんと付き合っていると思われるのか。

「アンタが路地裏で桑名と密会してたのを俺の仲間が見つけてさ。俺たち桑名を探してるんだけど。居場所教えてくんね?」
「…残念だけど、私は桑名さんの女でもないし、居場所も知らない。話はそれだけ? 私急いでるの」

 仮に桑名さんの居場所を知っていたところで教えることもなかっただろうけど。もう話すこともないと半グレたちの横を通り過ぎようとしたら、強く腕を引っ張られて後ろによろめいた。小さく悲鳴を上げてなんとか転ばないように踏ん張ると、半グレが顔を近づけて低い声を吐き出す。

「まあ待てよ。俺たちと一緒にこいよ。思い出させてやるからさ」
「だから、知らないって…!」
「ウルセェ!それは俺たちが判断すんだよ!!」

 至近距離で浴びる怒号に、びくりと肩が跳ねる。自分勝手にも程がある言い分に呆れてしまうのに、怖くて言葉が出てこない。一体こんな人たちが桑名さんにどんな用事があると言うのか。
 半グレに掴まれた腕がビリビリと痺れ、私なんかの力ではとてもふり解けるとは思えない。チラッと周りと見回してみても通行人たちは我関せずと道を開け、せめて警察に電話ぐらいしてくれてもいいのにと思う。

 どうしよう、と情けなく睨むことしかできなかった私の耳に、恋人の、聞いたことがないくらい低い声が届いた。
 

「その手、離せよ」
 
 八神さん、と呼んでみたけど声になっていたかは分からない。喧嘩をして声を荒げたことはあっても、こんな風に心の底から怒ったような顔を見るのは初めてだった。八神さんはその長い足で一瞬で私の前に来ると、半グレの手を掴んで易々と捻り上げた。

「い、ってぇ…!テメェ、八神ィ!!」
「誰の命令だ?相馬か?」
「テメェには関係ねぇんだよ!」

 振り上げられた拳を軽く躱して、八神さんが私の肩を抱いて数歩後ずさる。「下がってて」といつもと違う顔の八神さんに黙って頷いて、その背中を見送った。いつもならやれやれ、なんて雰囲気で相手をしているのに、今日の八神さんは怒りの感情を隠そうともせず力いっぱい半グレたちを殴り飛ばしていた。

 ものの数分であっという間に半グレたちを全員倒してしまった八神さんは、相変わらず強いらしい。息も乱してない様子で倒れた内の一人の胸ぐらを掴み、何が目的なのかを吐かそうとしている。その理由は私も気になるのでもういいかと近づこうとした時だった。

 暗がりの中で、月明かりに反射してキラリと光る物が視界に入った。その光に視線を流すと、薄暗い路地裏の、八神さんから死角になる場所でもう一人、半グレが隠れているのが見えた。

 更にその手に持っているのは、刃物だ。ドクン、と心臓が大きく鳴り響く。夜の空気を切り裂くような鋭いその切先は、真っ直ぐに八神さんへと向かっていく。私は殆ど反射的に、八神さんへ飛びついていた。
 
「莉子!!!!」
 
 叫びに似たような声で、八神さんに名前を呼ばれた。
 何が起こったのか理解できなくて、膝から地面へと崩れ落ちる。呼吸をすると脇腹に鋭い痛みが走って、震える手で八神さんの服を掴んだ。
だけどその指先に力が入らなくて、ただとにかく急激な眠気を感じた。ワンテンポ遅れて刺されたのだと理解した途端、咄嗟に八神さんの顔を見上げる。生理的に浮かぶ涙の向こうで、八神さんの焦った顔が滲んだ。
 
 
 ──嗚呼、そうか
 
 ずっと不思議だった。
 どうして八神さんが自分を犠牲にしてまで誰かを助けてるのか。怖くないのかとか、逃げたくなったりしないのかとか。
 頬に触れる八神さんの手に、自分の手を重ねて、重い瞼を無理やりこじ開けて笑う。
 
 そっか。
 そうだよね。
 
 
「八神さんが無事で、よかったぁ」
 
 
 それは自分を犠牲にしてまでも、守りたい物があるからなんだね。
 
 
 
 
 * 
 

 
「ター坊、一回休んだらどうだ」

 水の中に沈んだような遠いところで、海藤さんの声が聞こえた。

「いや、大丈夫だよ。目が覚めた時、側にいてやりたいから」

 今度はそれよりも近い場所で、八神さんの声がする。
 意識は少しずつ浮上しているのに、体は重く手足は動かない。ツン、と香る消毒液の匂いだけがここがどこかを示している。それと同時に、その理由を思い出して心なしか脇腹にジクジクとした痛みが走った。

「…そうか。けど、無理はすんなよ。お前まで倒れたら元も子もねぇぞ」
「わかってる。ありがとう、海藤さん」

 カラカラと軽い音がして、恐らく海藤さんが病室から出たのだと悟った。早く起きて私は平気だよ、と伝えたいのに金縛りにあったように瞼は持ち上がらない。まだ隣にいるであろう八神さんが身じろぎする気配を感じて、右手が強く握られた。

「莉子」

 震える声で名前を呼ばれ、チクンと胸が痛む。力強く握られた右手が、そのまま八神さんの心の痛みまでも伝えてくる。これじゃあ、まるであの時と正反対だ。

「約束したよな。一人にしないって。俺を信じてくれんだろ。代わりに、泣いてくれるんだよな。なあ、」

 悲痛な八神さんの声に、こじ開けようとした瞼に力が入らなくなる。起きて、起きて私は八神さんになんて声をかければいいんだろう。ゆっくりと優しい手つきで頭を撫でる八神さんの手に、無性に泣きたくなった。
 
 ──ああ、多分きっと。

 あの時八神さんは起きてた。私がそばで泣いているのを、こんな気持ちで聞いてたんだ。何故だかはっきりと、そう確信する。ねぇ八神さん。私たち、やっぱり似た物同士なのかもしれないね。

「や、…がみさ…ん」

 何とか絞り出した声は思ったよりもしゃがれていて、大した音は出なかった。それでも至近距離にいた八神さんにはちゃんと届いたようで、すぐに名前を呼ばれる。

「待ってろ、すぐ医者を呼んで…」
「まっ、て」
「どうした?痛むか?」
「ううん。お水、ちょうだい」

 そこまで傷は痛まないし、今はまだ起きたばかりで折角の八神さんとの二人だけの時間を優先したい。そんなことを言うと怒られそうなので、カラカラの喉に水分を求める。八神さんはすぐにサイドテーブルにあったペットボトルを手に取って、それはそれは丁寧にゆっくりと私の体を起こした。

「…ん、」

 一体あれからどれだけの時間が流れたのか。随分と久しぶりに感じる水は、今まで飲んできた物の中で一番美味しく感じる。一度深く深呼吸をして気遣うように背中を撫でる八神さんに、やっとまともに顔を向けた。

「八神さん、怪我はない?」
「何言ってんの…。俺なんかより、自分の心配しなよ」
「だってあの後どうなったか分からないんだもん。あの人たち、どうなったの?」
「すぐに警察に送りつけたよ」
「本当に?」
「…まあ、正当防衛の範囲内で痛めつけはしたけど」

 元弁護士の、腕っぷしの強い八神さんのいう正当防衛の範囲内、がどこまでのものかは想像もつかないけど、見たところ八神さんに大きな怪我もなさそうで一先ず安心できた。ホッと息をつく私に、八神さんは何故だか気まずそうにあちこちに視線を彷徨わせ、繋がれたままの右手に視線を落とした。

「あのさ、こんなこと言うと怒られそうなんだけど。……血を流してる姿を見て初めて、自分が普段どれだけ心配かけてたか、分かった気がしたよ」
「そ、っか。それは良かった、て言って良いのかな。…ねぇ、もし私がそれでも大丈夫、て言っても気にしないでいれる?」
「……無理だな」

 そう言って八神さんが眉根を下げて困ったように笑う。

「本当に、心臓が止まるかと思ったよ。あんな思いはもう二度とごめんだし、正直言ってこのまま一生部屋に閉じ込めておきたくなった」
「…そんなキャラでしたっけ?」
「そっちがそうさせたんだよ」

 冬のせいか乾燥してカサついた八神さんの手が、するりと髪を弄ぶ。普段怪我をする側の八神さんが、怪我を心配する側に回るなんて。よっぽど堪えたのか、八神さんの背中はまん丸く元気がない。

 貴重な光景に、三年前の私に教えてあげたくなった。きっと分かり合える日が来るから、逃げないでって。

 そういえば、あの時私に忘れない選択肢をくれた、今回の事件にも関係しているらしい桑名さんはどうなったのだろう。

「八神さん、桑名さんと連絡取れる? あの人達桑名さんのこと探してたみたいなの。知らせといた方がいいかも…」
「あー…いや、大丈夫だよ。桑名ならもう、多分この街にはいないと思う」
「え、」

 詳細が気にはなったけど、八神さんのまつ毛が伏せて影を作るその顔は、詳しいことは聞かないでくれと言っているようで口を噤む。もしかしたら、以前の八神さんが受けた暴行や海藤さんの言っていた事件に関係しているのかもしれない。

「そっか」

 八神さんが大丈夫、と言うのならば大丈夫なのだろう。にっこり笑ってそれ以上追求せずにいると、心なしかホッとした顔をするのでこちらも安心する。きっと私が首を突っ込んだところで、今日みたいに足を引っ張るだけだと思うから。

「…あのね、私も無茶する八神さんの気持ち、ちょっとだけ分かったような気がしたよ」

 話題を変えようと、寄り添ってくれた八神さんの気持ちに私の気持ちも伝える。相手の立場になって初めて分かることがある。そんな単純なことにどうして今まで気づかなかったんだろう。

 大切な人が、危険な目にあう。それは本当に怖くて、あの切先が八神さんに向けられた時心臓が一瞬で凍りついた。大切な人を守れるのなら、自分がどんなに傷ついたっていいやとすら思ってしまう。
 八神さんもきっと、彼にとって譲れない色んなものを守ってきたんだろう。勿論自分を大事にして欲しいと思う気持ちは変わらないし、八神さんの事を大事に思っている人の事も忘れて欲しくはないけれど。

 あの時感じたのは、どんな理屈や論理だって関係ない。ただ、好きな人にはずっと笑っていてほしい。それだけだった。

「八神さんが無事で、本当に良かったって思ってる」
「…無茶しないで欲しい、って言いたいけど。全部鏡なんだよな」
「反省した?」
「そりゃ、もう」

 へにゃ、と困った顔で笑った八神さんが、優しく啄むようなキスを落とす。
 ねぇ、八神さん。似た者同士な私たちはこれからも一緒に、一つ一つ問題を解いていこう。沢山話をして。時にはぶつかったりしながら、もうすれ違わない様に、好きなこと。嫌いなこと。許せないこと。守りたいこと。

 それから、二人で生きるこれからのことも。

 ずっと、あなたの隣で笑っていたいから。









 
 やがて春が来て、狭かった部屋を引き払った。仕事は続けていたいと思ったし、八神さんも辞める必要はないと言ってくれたから私の勤務地は相変わらず異人町だ。

 それでも、少しでもお互いの距離が近くなる様にと神室町と異人町の真ん中辺りに新しく部屋を借りた。以前より少しだけ広くて、抱きつきたくなったら手が届く距離感を保てるような、丁度いい部屋。
 
 
 今日も仕事を終えて帰路へとつく足取りは、明日からのお休みにウキウキと軽い。家はこの角を曲がればすぐそこだ。まだ薄明るい空に淡く浮かび上がる満月の下で、我が家が顔を出す。沢山ある窓の中から我が家に灯りが付いてるのを見つけて、「あ、」と思わず顔が綻んだ。

 軽かった足取りは羽が生えたようにどんどん早くなって、あっという間に扉の前へと辿り着く。ガチャ、と鍵を回さなくても抵抗なく開かれるドア。

 そのまま中へ入ると、優しく微笑む八神さんが待っていた。迷わずその腕の中に飛び込んで、甘くて爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込んで幸せを噛み締める。


 それから、柔らかく細まる目にこれから先も、伝え続けていきたい言葉をあなたへと渡す。

 
 
 

 

「ただいま」

 
「おかえり」
 
 
 


 
top.