隙間に笑う情緒
「あ、さおりさん!」
混雑した店内で目当ての人を見つけ、手を振って駆け寄る。私の声に俯いていた顔を上げたさおりさんが、長い前髪の奥にある澄んだ瞳を細めて優しく微笑んだ。
「すみません、遅れてしまって…!」
「いえ。私もついさっき着いたばかりなので」
そう言ったさおりさんの手元には、中身が少し減ったコーヒーカップがある。きっと遅刻した私を気遣って嘘をついたのだろうと思うと、その優しさに心がじんわりと温かくなった。
さおりさんとは、八神さんの紹介で知り合った。最初はあまり表情の変わらないクールな外見に緊張したけど、何度か話す内に次第に打ち解け、実はとても優しく強い女性なのだと知った。それからお互い無類の甘味好きだと知り、予定が合えばこうして神室町のスウィーツを制覇するべく、一緒にカフェ巡りをする仲にまで発展したのだった。
「ここのパンケーキ、この前雑誌で見てから気になってたんですよ」
「丁度期間限定のメニューもあるそうです。どうせなら、この二種類を半分こにしませんか」
「わあ、それさいっこうです!」
ウキウキとした表情でメニュー表を差し出すさおりさんは、一見長い前髪で分かりづらいけれどとても綺麗な顔をしている。それでいて男性ばかりの職場でも物怖じせず意見する姿は、同じ女性として憧れの存在だった。一人っ子の私には、まるで頼りになるお姉さんのように感じられて、引き合わせてくれた八神さんに感謝しても仕切れない。
「楽しみですね」
大好きな甘いものを子供みたいに楽しみに待つその姿に、年上の人に失礼とは思いつつも可愛らしく見えて、思わず笑みが溢れた。
♢
「はあ、美味しかった」
「ええ、まだまだ食べれそうです」
食後のコーヒーを飲みながら、心とお腹を満たされて幸せいっぱいに背もたれに背中を預けた。甘いだけじゃなく爽やかなクリームとさっぱりとしたみかんのソースが絶妙だった。流石にお腹いっぱいだったけれど、真顔でそんなことを言うさおりさんはもしかしたら本気なのかもしれない。
「そういえば、今更ですけどこういうの、星野くんも行きたいって言いませんか?」
「…まあ、言わなくはないですけど。私は莉子さんと二人でこうやって美味しいものを食べてる方が楽しみなので」
「さ、さおりさん…!嬉しい!私もさおりさんとこうやって甘いもの巡りしてる時間が大好きです!」
さおりさんからの嬉しい言葉につい前のめりで大袈裟に頷くと、さおりさんは可笑しそうに小さく声を出して笑った。その笑顔はとても可愛らしく、多分、この場に星野くんがいればきっと発狂していたに違いない。
「八神さんとは、こういうお店は行かないんです?」
「誘えば来てくれると思うんですけど、何となく男の人って甘いもの好きじゃないイメージがあって…」
「八神さんなら、莉子さんの誘いを断ることはないでしょうね」
「そう、ですかね…」
「?何か問題でも?」
つい沈んだ声を出してしまって、さおりさんが不思議そうに首を傾げる。実はここ数日、八神さんのことで悩んでいる事がある。海藤さんは八神さんと距離が近すぎて中々相談できず、さおりさんなら八神さんの元同僚だし、長い付き合いみたいなので思い切って相談してみようと、今日の約束を取り付けていた。
一口だけコーヒーを飲み込んで、緊張する喉を潤わす。自分でもまだうまく言えないこのモヤモヤを、どう伝えればいいか悩み、言葉を探しながら口を開いた。
「八神さんって、昔からその…喧嘩が多かったですか?」
「喧嘩、ですか」
「トラブルに巻き込まれやすいっていうか、首を突っ込みやすいっていうか…。困っている人を助ける姿をよく見てて。実際、私も困ってるところを助けてもらったので偉そうなこと言えないんですけど…」
八神さんはデートしていても困っている街の人を見つけると、相手がどれ程強面の大人数でも、すぐに駆けつけ手を貸している。一応は最初に話で解決できるよう持っていくけれど、そもそも話が通じるような相手ならトラブルなんて起こっていない。大抵は、逆ギレした相手に殴りかかられそれを返り討ちにすることが多い。又は、以前どこかで八神さんたちが相手にしたヤクザたちの報復を受けたりなど。
「別に自分から喧嘩をふっかけてる訳じゃないですし、正義感のある強さはかっこいいなって思うんです。一応は、正当防衛ですし。問題は、八神さんの自分の扱い方なんです」
「…と、言うと?」
「喧嘩が強いのは分かるんですけど、怪我をしてても放置する事が多いですし、そもそも優先順位が低い気がして。…もっと、自分のことを大切にして欲しいんです」
何かあった時、彼はいつも周りの安否から確認する。以前少し厄介なヤクザに絡まれていた女性を助けた時も、口の中を切って血が滲んだ唇で女性の身を案じ、八神さんの言いつけ通り離れた位置でそれを見守っていた私にも「ごめん、大丈夫?」と気遣ってみせた。私がハンカチで血を拭って、初めて怪我のことを思い出したように目を丸くした姿がどうしても忘れられないでいる。
「…何だか『痛い』って言うのを我慢してる気がして。私、それがどうしても許せなくて。この前初めて喧嘩しちゃいました」
つい最近も、酷い痣を作っていたのに黙っていた事があった。どれだけ私が心配の言葉をかけても、八神さんには中々響いてくれない。きっとそれは彼にとって日常茶飯事で、取るに足らない事だからだ。
八神さんが誰かを守る度、増えていく傷跡を見る度。私はいつも心が痛いくらいに締め付けられていく。誰かのためじゃなくて良い。私は、八神さん自身を大切にしたいのに。
上手く言葉にできなくて、えへへ、と情けない笑い声で誤魔化すと、さおりさんは深いため息をついた。眉間に皺を寄せて、少しだけ悩んだ後「八神さんは、」とまっすぐな黒い瞳がこちらを見据える。思わずどきりと心臓が跳ねて、背筋が伸びた。
「大馬鹿者ですね」
キッパリと言い切ったその様子に、ポカンと間抜けに口が開いた。さおりさんは丁寧な所作ですっかり冷めてしまったコーヒーを飲みこんで、まるで私を安心させるように優しく微笑んだ。
「確かに、八神さんは強いと伺ってます。詳しくは聞いていませんが、彼の生い立ちにも関係あるかもしれません。ですがそれは過去のことです。今は莉子さんがいますから。良い加減、優しさの意味を理解するべきなのかもしれませんね」
「優しさの意味、ですか」
よく分からず首を傾げると、さおりさんは小さく頷いた。
「自己犠牲愛は優しさではないと言うことです」
その言葉は驚くほど胸にストンと落ちてきた。なるほど、そうか。モヤモヤしていたものに名前をつけられて、少しだけスッキリした気持ちになる。八神さんは愛がある人だ。だけど例えどれ程その愛に救われたって、そこに八神さんが笑っていなければ何の意味もないんだから。……そのことを、どんな風に伝えれば八神さんは分かってくれるんだろう。
「…痛みを分けて欲しいって思うの。変ですかね」
「いいえ。八神さんには、そういう相手が必要だと思います」
そしてその相手は、貴女だと思いますよ。そう言ってさおりさんが笑うから、私も釣られて笑顔になる。
痛い時は痛いって。苦しい時は苦しいって。一緒に悩んでいたい。痛みを我慢なんてしないでほしい。それはこんなにも、八神さんが大好きだからだ。
* * *
「ただいま」
「おかえり」
すっかりお馴染みになった、このやりとり。私の部屋に八神さんの私物が増えてからどうせなら、と合鍵を渡した日から八神さんはちょくちょく私より先に部屋へ訪れるようになった。今までずっと一人で住んできた部屋に響く「おかえり」の言葉はどんなにしんどい日でも一瞬で心を軽くする魔法の言葉だ。特にそれが、大好きな人が口にするから余計に。
「お酒買ってきたんだ。夕飯はもう食った?」
「ううん。でも、甘いものでお腹いっぱいだからまだいいや。せっかくだしお酒だけ貰おうかな」
勝手知ったる動きで冷蔵庫を開ける八神さんを尻目に脱衣所で手早く部屋着へと着替える。リビングに戻ると手招きされて何だかすっかり定位置になった八神さんの足の間へと腰を落ち着かせた。
「今度の土曜日さ、」
「うん」
「どっかちょっと良い店行かない?…折角の、記念日だし」
「えっ…!」
驚いて振り返ると、少しだけ照れくさそうな八神さんと目が合った。まさか八神さんの口からそんな言葉を聞けるとは思ってもいなくて、嬉しさと驚きで上手い言葉が見つからず、代わりにぐるりと体を反転させてその形のいい唇に触れるだけのキスをした。
「いいの!?凄く楽しみ!」
そうだ、それなら美容院に予約して髪の毛を整えてもらおう。それから、ちょっと綺麗で高い服なんかも買っちゃって。ワクワクと弾む心に早速準備しなきゃと浮かせた腰は、立ち上がる前にグッと掴まれ動きを阻止された。
「?、やが…んむっ、!?」
至近距離に見える黒い瞳に吸い込まれるように、呼吸を奪われる。頬に手を添えられて、触れるだけのキスからどんどん深いキスへと変わっていく。気持ちよさに八神さんの首へと手を回すと、ヒョイっと抱えられてすぐ隣の寝室へと連れて行かれた。
優しくベッドに降ろされて、少しだけ上がった息を整える。あえて、電気は付けられない。優しさと、欲に溺れた瞳が暗がりの中で私を静かに見下ろしていた。
「…八神さん、」
「うん?」
するすると服の中に入り込む手を止めず、もっと、と強請るように首を引っ張ってキスをせがむ。小さく笑った八神さんが望み通り何度も優しいキスの雨を降らせた。
──絶えず与えられる快楽に身を任せ、無我夢中で抱きついて。荒い呼吸が響く室内で今この瞬間は世界で二人ぼっちみたいにお互いしか見えなくなっていく。
目尻から流れた涙を八神さんの長い指が掬って、初めて自分が泣いていることに気がついた。熱く重なる呼吸の中で、八神さんが気遣うように額に張り付いた前髪を払う。
「どうした?」
「…ううん」
なんでもないよ、と言う代わりに八神さんのカサついた薄い唇を甘噛みして口の端から漏れる嬌声を抑え込む。ギシギシと響くベッドの音が、安い恋愛ドラマみたいに感情を昂らせていった。
「んっあっ……、ふっ、ぁもっ…!」
なんだか少し余裕なさそうに八神さんの腰の動きが早くなって、私も声を抑える余裕がなくなっていった。
ずちゅん、と奥に擦り付けるように深く腰を打ち付けられると、自分のものとは思えない甘ったるい声を響かせながら達してしまう。続けて八神さんも小さく唸って、ゴムの中へと欲を吐き出した。
暫く乱れた呼吸を整えて、服を着るのも億劫でそのまま少し汗ばんだ腕に頭を乗せると、優しい手つきで大きな手のひらが髪の毛を梳いた。
「…すき」
聞こえないように、小さく呟いたつもりだったけれど、この距離ではあまり意味がなかったらしい。
「うん。俺も好きだよ」
甘く蕩けるような声が頭上から降ってくる。その言葉に、なぜだか無性に泣きたくなってしまった。
満たされたその瞬間、薄く開いた心の隙間にじわじわと不安が広がっていくような。そんな気がしてしまうのは、何故なのだろう。