扉は静かに閉まる



「お客様、お料理はいかが致しましょう」
「すみません…。もう少しだけ待ってもらえますか」

 申し訳なさそうに声をかける店員さんに、羞恥心で泣きそうになりながら謝る。予約したお店に一人、馬鹿みたいにお洒落して記念日を楽しみにしていた私はきっと周りの良い酒の肴になったことだろう。
 何度目かになるスマホ画面の確認も、相変わらず真っ暗なままで音沙汰はない。
 待ち合わせ時間になっても中々やってこない八神さんに何かあったのかと何度も電話をするけれど、コール音は虚しく響いて留守番電話に繋がるだけで。それからきっちり四時間。私は馬鹿な女になっていた。



 皮肉なくらい綺麗な満月がてっぺんに輝いているのを、泣くのを我慢するために睨みながら漸く家に着いた。外から見上げる自分の部屋にいつもの明かりはついていない。重い足取りでエレベーターに乗り込み、ガチャリと鍵を回す。

「…ただいま」

 もちろん、返事はない。パチっと部屋の電気を付けると、慌ただしく出かけた後だけが虚しく残っていた。玄関には多数の靴が散乱していて、どの靴が今日の服装に合うか散々悩んだ後だった。そして丁度、その中から選ばれた綺麗なエメラルドグリーンの靴を脱いだ時、やっと音沙汰無しだったスマホが震えた。

 慌てて画面を確認すると、着信画面には海藤さんの名前が浮かび上がっている。妙な胸騒ぎを覚えつつ震える手で通話ボタンを押した。耳に聞こえるのは海藤さんの低く落ち着いた声で、八神さんは今日トラブルに巻き込まれて腹部をナイフで刺されたと告げられた。

 突然の情報に頭はパニックになって、脱いだばかりの靴を履いて弾かれたように玄関を飛び出る。命に別状はないと聞かされたけれど、この目で確かめるまでは安心なんか出来るわけもなく。タクシーを捕まえて、震える声で行き先を伝えると車はゆっくりと発進した。それは多分、今ままで生きてきた中で一番地獄のように長い時間だった。
 
 
 入り口で私を待っていてくれた海藤さんは、病院には不釣り合いな私の格好を見て色々察してくれたのだろう。自分のことみたいに傷ついたような顔をして、だけど何も言わず、八神さんの病室へと案内してくれた。今はまだ薬も効いて眠っているからと、海藤さんは気を遣ってくれたのか私を置いてすぐにその場を去った。

 その優しさに甘え恐る恐る部屋の中に足を踏み入れる。四人部屋だけど、今は八神さん以外誰もいないらしい。ゆっくり歩を進め奥にあるカーテンを開けると、真っ白いシーツの中で八神さんは負けないくらい青白い顔で静かに深い眠りについていた。
 
 その顔を見た瞬間、私はぷつりと糸が切れたみたいに全身から力が抜け落ちて、膝から崩れ落ちた。 
 
 
 ──無事で良かったと、心から思った。

 穏やかに眠る横顔を見て、この人が好きだという感情が溢れて涙が止まらなくなった。

 それと同時に、もう無理なんだと思ってしまったのだ。
 
 これから先、私はこの人が何か事件に首を突っ込む度にこんな思いをするのだろうかとか。怪我をして帰ってくる度に無事で良かったと当たり前の事に安堵して、また知らない誰かのために傷つく背中を見送らないと駄目なんだとか。そういうことを、心配する私の声はきっとこれからも、八神さんには届かないんだとか。
 
 私にはもう、この好きという感情だけではどうにもならない不安に、耐えられる自信がなくなってしまった。
 もっと普通の、絵に描いた様な幸せな未来を想像していた。それはとても穏やかで、優しくて幸せに満ちた暖かい日々を。
 
 

 その相手が八神さんなら良かった。


 八神さんが良かった。


 こんなにも好きなのに、私はきっと八神さんの特別にはなれない。
 
 
 
 



 数日後、八神さんの回復を待って私から別れを告げた。
 
 「そっか…」
 
 八神さんは、予期していた様にとても静かだった。理由を聞いたり、止めたり縋ったりなんかしなかった。ただ少しだけ、いつもみたいに痛みを我慢するみたいに小さく笑った。




「さようなら」










   彼は、追いかけては来なかった。


 
 
 
 
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