愛と知りせば
冷たい風が頬を撫ぜる。すっかり暗くなった空を見上げても、明かりの消えることのない神室町では満足な星空も見えやしない。
カチカチと数回かすったライターが漸く火を灯し、煙草に火をつけ深く吸い込んだ。ふぅ、と吐き出した煙が曖昧に形を揺らして冬の空へと消えていく。
「いててて…」
息を吸い込むと痛む脇腹に身を捩って手を当てた。ぺろっと服を捲ると僅かに青黒く変色していて、鏡を見なくても今の自分がどんな姿をしているのか安易に想像がついた。
はあ、とため息を落としてスマホを取り出す。──ちょっと厄介な仕事があって、今日は会えなくなった。そういうことを莉子宛てにメッセージで送ると、すぐに既読になって可愛いスタンプとこちらを気遣う言葉が返ってきた。それに少しだけ罪悪感を抱きながら、適当な言葉を返して事務所へ戻るべく足を進める。
あれから、なるべく莉子と会うときは怪我が少ない日を選んでいた。目立つような傷があるときは仕事と嘘をついて会うことを控えたり、ご飯を食べるだけで解散したり。そうすれば莉子の顔が曇ることはなかったし、比較的穏やかな日々を送れていたと思う。
俺はそれが莉子に対する優しさだと疑わなかったし、実際怪我のない俺を見る莉子の顔は安心していた……と、思う。
本当は莉子の不安に気づいていたはずなのに、心配されることがほんの少し煩わしくて。俺はずっと、見ないフリをしていた。
* * *
「八神さんは、莉子さんと結婚するんですか」
そんなある日、用事があって訪れた源田法律事務所で唐突にさおりさんにそう言われ驚いた。──結婚。余りに縁が無さすぎて頭に無かったけど、妙齢の男女が付き合っていればいつかは話題になる問題だ。
「結婚、結婚ねぇ…」
「もしかして、莉子さんの事遊びだとか言わないですよね」
「いやいや、よしてよさおりさん。ちゃんと真剣なお付き合いだよ。ただ俺なんかで良いのかなぁ、なんて」
「莉子さんの隣には、八神さんしかいないでしょう」
そんな事をまっすぐな目で言われてしまうと、思わずもごもごと口籠る。さおりさんと莉子はいつの間にか姉妹の様に仲が良く、莉子の事になるとさおりさんは少し煩い。けどいつだってその言葉には莉子を思いやる気持ちが入っていて、同時に二人の関係性に心が温かくなった。
雑談もそこそこに用事を済ませ、源田法律事務所から帰宅する途中、さおりさんの言葉を考えた。早くに家族を亡くした俺が、果たしてちゃんとした家族をもてるのだろうか。そんな不安がないといえば嘘になる。けど、すれ違う若い子連れの夫婦を見ては時々思う。莉子が子供を抱いて笑ってる姿を想像して、その隣にいるのが自分だったなら。そんな未来も、悪くないのかもしれない。そう思える自分が少し意外で、嬉しかった。
──数日後、記念日に少し豪華な夕食を食べに行こう、と提案すると莉子は予想よりも大きく喜んでくれた。以前の喧嘩の件もあって最近少しだけ気まずかった空気が嘘のように、幸せそうに笑って軽いリップ音を響かせて触れるだけのキスをする。そんな莉子が可愛くて、思わず抱き寄せてもっと深くキスを落とした。
* * *
記念日の当日、約束の時間までまだ時間がある事を確認して指輪を買いに宝石店へと向かった。さおりさんに言われたからという訳じゃないけど、折角の記念日なのだしと年甲斐もなく浮かれた気持ち半分、婚約と言うには大袈裟だけど、そういうつもりもあるという意思表示のための気持ちも半分込めて。
普段自分がアクセサリーを付けることがないから少し苦戦したが、何とか気に入ったものを買えた。これを渡した時の莉子の顔を想像して、一人にやけそうになるのを必死に抑える。
はやる気持ちを抑えそろそろ約束の店へと向かおうかと足を踏み出すと、路地裏で妙な動きをしている人影が見えた。思わず立ち止まり身を隠しながら様子を伺うと、ヤクザのような男が女を無理矢理連れ込もうとしている様子だった。女は既に必死に抵抗したのか、遠目でも分かるほど髪は乱れ頬は赤く腫れ上がっている。
──その後は、考えるよりも先に体が動いていた。間に入り、一応交渉してはみるがヤクザに効果などあるはずがなく。しかもどうやら相手は羽村の息がかかった連中だったようで、俺だと気づくと余計に敵意をむき出しにして殴りかかってくる。
いつもと変わらない喧嘩。
よくあるトラブル。
それでも今日は、大事な日だから。こんな日に、余計な怪我をして莉子の顔を曇らせる訳にはいかない。そんな考えが俺の注意力を奪っていたのか、気がつくと腹部に鋭い痛みが走っていた。
それがナイフで刺されたのだと気付くと同時に、しまった、と思う。莉子の泣きそうに歪んだ顔が脳裏に浮かんで、ごめん、と頭の中で謝る。大丈夫だからって。そう彼女に伝えなければならないのに。ガクリと膝が地について、意識は暗闇の中へと落ちていった。
「やがみ、さんっ……」
泣きじゃくる、莉子の声が聞こえた。
声を追いかけるように沈んでいた思考がゆっくりと浮上して、ぼんやりとピントの合わなかった視界が焦点を定めていく。見覚えのない白い天井に、重い体と鼻にツンとくる消毒の匂いがここが病院なのだと教えてくれた。
莉子は俺が起きたことに気づいている様子はなく、ずびずびと鼻を啜りながら痛いくらいに俺の手を握っていた。
「もっと自分を、大事にしてよっ…」
絞り出されたような掠れた声に、ガツンと鈍器で頭を殴られた様な衝撃が走った。ずっとずっと俺の身を案じていた莉子に、俺はどんな色の目を向けていただろう。自分の強さを過信していた俺に、莉子の純粋な気持ちが刃物の様に突き刺さる。
両親が死んでから年齢を偽り神室町で働いて。まだ未成年のガキだった俺は誰の手を信じれば良いのかも分からずに、必死に意地を張って生きていくことで何とかこの街で立っていた。海藤さんや親っさんに出会って一人で立つ方法も学んだのに、その癖は中々抜けなくて、誰かに弱みを見せるなんて考えもしなくて。
──そんな中で、俺は莉子に出会えたのに
この傷は、莉子の不安に気づいていた筈なのに見て見ぬ振りをした俺への罰だ。
必死に声を押し殺して泣く莉子を抱きしめたかったのに、金縛りにあったかのように身体が動かない。声をかける勇気も目を開ける度胸もなくて、俺はずっと情けなく眠ったふりを続けていた。吐きそうになる程の後悔が頭を駆け巡り、ずっしりと暗い影が心を占めていく。そんな頭の片隅で、終わりが近づいていることを静かに予感していた。
数日後、退院した俺に莉子はやはり別れの言葉を告げた。
元々華奢だった身体がより一層細く見えて、この数日間が莉子をいかに苦しめていたのかがよく分かる。
「そっか…」
なるべく重くならないように、これ以上莉子の負担にならないように、縋ったり理由を聞いたり怒ったり泣いたりしないように。ただ、笑った。それは莉子の思いを受け止める事が、最後に俺が許された優しさだと思うから。
多分莉子は、俺が本当に自分を好きなのか不安だったと思う。それでも、確かに本気で好きだったよ。それだけは、信じて欲しい。
「ごめんな」
その言葉を伝える資格は、俺にはない。