いちにちめ
 あれは夏休みが終わるころだっただろうか? 川の音が私は一人の男の子に出会った。あの日、私は気付かないうちに恋をして、彼と過ごした時間をずっと忘れられずにいる。

 
 ――いちにちめ

 真夏のうだるような暑い陽射しと汗ばむ肌を撫でていくぬるい風。あの、騒々しく鳴く蝉の声ですら今は心地良い。山積みに出された提出物を片付けた後は清々しい気持ちになる。あとはもう、長い休みを謳歌するだけなのだと顔をほころばせながら、私は枝や小石が散らばっている小道を歩いていた。親に見せてもらったあの映画のように、不思議な生物に出会えるかもしれないなんて、ちいさな夢を見ながら、川のせせらぎが聞こえる森の奥へ向かっているのだ。

 ふぅ、と深く息を吐きだして、新緑の青々とした酸素を肺いっぱいに吸い込む。……熱気のせいだろうか、喉が焼けるように熱い。肩に引っ掛けた鞄の留め具を外して、水筒の蓋を開ける。口をつけながら頭上へ視線を逸してみると、幸い肌を焼くような日差しは育ちきった大木のおかげで遮られていて、体力を奪われる心配はしなくて済みそうだ。ごくん、と少し温くなった麦茶を飲み込んで、蓋を閉じる。

 もう少し進んでみようか。一時間もすれば音が聴こえる場所へ辿りつけられるかもしれない。ああ、でも、限界を迎える前に、一度木陰で涼むのもありかもしれない。夕暮れまでに帰れば家族に怒られることもないだろう。
 いつもの癖で無駄なことを心配してしまっていた。ぴたり、と止まった足。私は頭を横にふってから、ぱたぱたと森の奥へ駆けていく。わからない、でもなんとなく”今”を考えたくはなかった。子供らしく、娯楽に夢中でいれたらいいのに。お小遣いの範囲内で買える、アイスクリームを一日の楽しみにする。そんな甘い夢をみたって、今は許されたっていいはずだ。

 見えない誰かに話しかけるように、ぐちゃぐちゃな思考を繰り返しつづけるのがいやで、私は目を強く瞑る。そうして、がむしゃらに森の中を走っていると、自然でできた屋根が消えてしまったらしく、カッと熱い陽射しが体に向けられる。汗が流れる額に手をおいて日よけにしてみると、そこには、美しい光景があった。

 陽射しを反射し、きらきらと輝く大きな川が眼前に広がっていた。流れゆく波は大きな岩にぶつかり、宝石のような飛沫をあげる。ぬるく感じていた風もどこか涼しげで、乱れていたはずの呼吸が、なぜだかすぅと落ち着いていくのを感じる。
 対岸までは伸びていない木製の足場には、誰かいるようだったが、日差しのせいか視界がちかちかしていて、うまく見えずにいた。

「……驚いた。人が来るなんて」

 丸く縮こまっていた影がゆらりと揺れて、人の形に変わっていく。カメラのピントを合わせるように、ゆっくりと目を細めてみれば、ぱたぱたと風に揺れるレースアップシャツや、キャラメル色のボトムスなどが目に映る。時代錯誤な服装よりも、残雪ざんせつのように白く透き通った髪と、蜂蜜のように甘そうな金色の瞳が印象的な美しい青年は、容姿もまとう雰囲気もすべてが現実離れしていて、自分は立ったまま夢でも見ているんじゃないかと、何度も目を擦り、ぱちぱちとまばたきを繰り替えす。もう少し近づけばわかるだろうか? いや、もしも妖怪とかそういった類のものだったらどうしよう。父には早いと言われた恐ろしい映画のテーマをふつふつと思い浮かべては後ずさる私に、彼は柔らかく微笑んで手を差し伸べた。

 「こっちにくる? そこ、陽があたって熱いでしょ」

 なんて、例えればいいんだろう。まるみのある柔らかな声、少し大人びたような笑顔がきらきらと眩くて、服の裾をぎゅうと掴む。よく、わからないけど悪い人ではないのかもしれない。そもそも妖怪とかそういったものなら、もっと怖い顔をしているはずだ。大丈夫、大丈夫と言い聞かせていると「ほら、おいで」なんて追加で言われてしまった。罪悪感、というのだろうか。此方は警戒しているというのに、なにも気にしていないらしい青年の声を拒否することなんてできなくて、私は恐る恐る彼の元へ近づいていく。

「ごめん。驚かせちゃったね」

 青年の言葉に私は首を横にふる。別に驚きはしていない。いや、顔の良さに驚きはしたかもしれないけど、謝ってもらう必要はないことだ。ただ、話しかけてもらうまでは良いのだが、どんな会話をすればよいのかわからずにいる。もじもじと指先を擦り合わせて、話題を探すも「川が綺麗ですね」としか浮かばず、自身のコミュニケーション不足を痛感させられる。

「僕の名前は夏彦というんだ。
 君のことはなんて呼べばいいかな?」

 あっ、呼びやすいように呼んでほしいななんて付け加える青年に、私は手を止める。名前、教えていいのだろうか? 知らない人に名前を教えることはなんとなく躊躇してしまう。それに、私は”私”が嫌いだ。特に明確な理由はないが、なんとなく言いたくなかった。

「ひみつ?」
「……うん」

 仲良くなったら。なんておませなフリをして川に浸けていた足を動かす。さっきまで楽しかったのに、急に現実に戻されたような気がして、少しだけ息苦しい。くるくると跳ねた髪をしてはいるが、どこかの王子様のような容姿をした青年に、出会ったところまでは御伽話のようでときめいていたというのに、膨れ上がっていた好奇心がしょんぼりと絞れてしまっている。

「じゃあ、ハルちゃんって呼ぼうかな」
「どうして?」

 思わず振り返ってしまった。夏彦と名乗った少年は私の額に浮かんだ汗をとんとん、とハンカチで拭う。柔らかな笑みを浮かべるその顔は、私とは対象的にとても涼しげで綺麗にみえた。

「だって、かわいいから」

 かわいい? なんで? 聞き返したいのに言葉が詰まってしまう。さっきまで汗だくで走ってきた女の子のどこが可愛いのだろう。服だって探検することを想定していたから、可愛げというよりも、動きやすさを重視したものだ。お世辞にも可愛いとは言えない、はずだ。口ごもる私を見て夏彦さんは綺麗に笑う。
 
「……いつか、君の名前も教えてね」

 首を傾けながら、まっすぐ私を見つめている金色の瞳が綺麗だったから、希望を持たない私を”誰か”にさせたから、ただ笑顔が優しかったから、理由なんてたくさんあるけれど、歳不相応に冷めきっていたはずの私の心を、貴方は魔法をかけるが如く、容易く溶かしてしまったのだ。返事の代わりに笑みを返して、赤くなった顔を見せまいと膝に視線を落とす。不思議そうに私を見つめている夏彦さん、自覚のない感情を誤魔化すように、私は今日も暑いねとひとり呟いたのだった。