透明な壁の先
『−−−久しぶり、秀一さん。』
「あぁ。この間は悪かったな。」
『ううん、無理を聞いてもらっているのは私の方だから。』
久しぶりのライブハウス。
指定された一室に入れば、既に秀一さんは椅子に座って待っていた。少しだけ疲れているように見えるのは、私の気のせいだろうか。
『あの....秀一さん、今日はやっぱりやめておこうか?』
「...............何故?」
『.......秀一さん、なんだか疲れてるようだから。折角出てきてもらって悪いんだけど、今日は帰ってゆっくり休んだ方が良いよ。』
そう言うと秀一さんは目を見開き、それからフッと自嘲の笑みを浮かべた。
「まさか一回りも年下の君に気遣われる程とはな。」
秀一さんの言葉に思わず眉間に皺を寄せた。様子がいつもと異なるような気がするのだ。
「大丈夫だ。勉強は見よう。だが、今日はその前に−−−先に君の演奏を聴かせてはくれないか?」
『.......それは構わないけど。』
バイオリンケースを開きながら、演奏する曲の候補を考える。疲れているようだし、アップテンポの曲よりは落ち着いた曲の方が良いだろうか。
「アメイジング・グレースを聴きたいんだが、できるか?」
思わず、弓を張ろうとした手をとめた。
『.............まさか盗聴とかしてなかったよね?』
「ーーーいや、そこまではまだしていないが。」
『...............』
秀一さんは真顔で首を傾げている。私はというと、秀一さんの"そこまで"やら"まだ"といった含みがありそうな単語に顔が引き攣りそうになるが、藪蛇は嫌だ。下を向いて嫌な予感を無理やり追い払うと、改めて秀一さんに向き直った。
『−−−珍しいね、秀一さんがリクエストするなんて。』
「ーーー許しの歌」
『......?』
「......だったか?」
『ーーーー秀一さんは、誰かに許されたいの?』
「ーーいっそのこと、許さないと怒鳴られた方がまだマシだったさ。」
『...........』
「互いの信念と心情を押し付けあった結果、ものの見事に砕け散ってしまったようでね。」
『...........』
「−−−まったく、馬鹿な女だ。」
秀一さんの言葉だけを聞けば、付き合っていた彼女と破局しただけのようにも受け取れた。けれど。賛美歌あるいは−−−"鎮魂歌"としても歌われることの多いアメイジング・グレース。もしかしたら秀一さんは大事な女(ひと)を亡くしてしまったのかもしれない。
立ち上がり、軽く調弦をしてからゆっくり吐息を零す。それから静かにバイオリンを構え直すと弓を引いた。
この曲を作詞したと言われているジョン・ニュートンは所謂「奴隷貿易」に携わる船乗りだったらしい。当時の奴隷への扱いは酷く、多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などが原因で死亡したといわれている。
彼等の犠牲と"引き換えに"多額の富を得ることのできたニュートン。その後、九死に一生を得る経験をしたことが切っ掛けとなりこの曲を作詞したらしいのだが.......。
『ーーーーーー、』
両眼を閉じて耳をすませている秀一さんを見つめながら最後の音はビブラートをかけずに弓を下ろす。
私はバイオリンをデスクの上に置くと、そのまま秀一さんの首元に抱きついた。
見た目よりもがっしりとした胸元に顔を埋め込めば、まるで幼子にするかのように背中をさすってくれる。頭をあげて秀一さんの綺麗なエメラルドを見つめれば、思いがけなく自身の右眼から一粒の涙がこぼれた。
「................」
一瞬の間の後に、秀一さんの人差し指の背によって雫が払われる。
『........ごめんなさい。』
「.......いや」
『..............』
それから彼の手が私の背中にまわされれば、途端に規則的な打鍵を刻む。彼にあやされている私は、完全に子供だった。
「君ならーーー面と向かって気持ちをぶつけてきてくれそうだな。」
『........どうせ自分の感情を制御できない子供ですよ。』
でも、演奏家には多いのよ?と弁明すれば、秀一さんはくつくつと笑った。
「褒めたつもりなんだがな。少なくとも、影で泣かれるよりかはずっと良いさ。分かりやすくて、助かる。」
秀一さんの言葉を聞いて、そういう貴方こそ、と思ってしまう。
『−−−−悲しいこと、いつかちゃんと表出しないと、どんどん溜まっちゃってパンクしちゃうよ?』
そう呟けば、秀一さんは苦笑した。
「−−−どうやら、俺はとうの昔に泣き方を忘れてしまったようでね。」
『................』
「だがその分、君が泣いてくれるのだろう?−−−この薄情な男の代わりに。」
彼が泣けないのは.......泣いてもどうにもならないことを沢山知ってしまっている大人だからだろうか。泣いてる暇がないくらい、辛い経験を沢山してきたからだろうか。
ーーーそのどれもが正解なのかもしれないけれど、根本的には、多分、ちがう。
彼の言葉の節々にそう感じた。
『..........貴方は薄情な人なんかじゃないよ。涙を流せないのは、きっと、秀一さんが本当に悲しんでいるからでしょ。』
大切だったんだね。その人のこと。
そう呟けば、秀一さんは一瞬だけ動きをとめたもののその後は何事もなかったように私の背中をさすり続けていた。
それから暫くした後に、これまでのように勉強を教えてもらっていたのだけれど。
「そういえば−−−」
秀一さんがアメイジング・グレースをリクエストした際の私の反応が気になるらしい。なぜ、盗聴器を疑ったのか、と。
『アメイジング・グレースのセッションをする予定なの。』
「−−−−セッション?」
来週末のチャリティーコンサートのこと、色々あって少年探偵団と演奏することになり練習中であること等を簡単に説明した。
『みんな良い子達でね、明日の春スキーに私も誘ってくれたんだよ。』
「ーーーそうか。」
『スキーも、バスに乗っての移動も久しぶりだからね、実は少しわくわくしてるんだ。』
秀一さんは苦笑を零すと、誰が保護者なのか分からんなと小さく呟いた。........聞こえてますよ。
『でも、本当にそう。この間転校してきたばかりだっていう女の子も一緒に行くんだけど.......とても大人びた子でね。小学一年生のはずなのに、まるで自分よりも年上の人と話しているようだった。』
「ーーーほう。」
『.....スキーの件もね、同行して良いかその子にも了承をもらおうと思って聞いたら−−−馬鹿ねって。そんなこと気にしないで貴女の好きにしたら良いんじゃないのって、言われちゃった。』
「................。」
『あの、秀一さん?』
「ーーーあぁ、」
考え込んでしまった彼に首を傾げれば、彼は私の様子に気がついたのだろう。
「そろそろ問題に移ろう−−−次はこの問だ。」
しかし、気にするな勉強を再開しようと言わんばかりの彼の態度に、秀一さんが一体何を考え込んでいたのか特に追求することもできないまま、新しい問題の波に思考を沈ませることとなった。