アカデミーの戦慄
「久しぶり、小春」
『そうだね、元気そうで何より。』
堂本音楽アカデミーの校門前で待ち合わせた私と千秋は、挨拶もそこそこにセミナー会場へと向かった。
『帝丹はどう?』
「面白いよ。クラスのみんなも気のいい奴らが多くて。あ、実はあたし、運動部に入ったんだ。」
『運動部?部活に入ったんだ。』
「本当は帰宅部にして外部で活動するつもりだったんだけどね。新歓で痺れちゃって!」
『.........痺れる?』
「いやぁ、女子空手部の主将の技がね、格好良かったんだよ!分かる?こうビュっ、ビュっとね!!」
右腕を突き出し、構えをとる千秋に思わず苦笑する。
『なんだか、その構えって、空手っていうよりボクシングみたい。合ってるの?』
ええ、と彼女は不満気だ。じゃあこれは?と前置きをいれて数秒後、ネコ足!と叫びながら構える彼女に笑った。
「小春も思ったより元気そうだね。」
『え?』
「聞いたよ。右腕、怪我したんでしょ。病院には行ったの?」
千秋の視線が私の右腕に向かえば、バツが悪くて左手を右腕に添えた。千秋の溜息が横から聞こえる。
『聞いたんだ。でも大丈夫だよ。ただのかすり傷だし。』
「−−−−普通ならね。分かっているだろうけど、少しの怪我でも演奏に支障がでることもあるんだから、大事にしないと。何も父親の病院になんて行かなくても良いんだし、一度ちゃんと診察をしてもらった方が良いよ。」
『そうだね......』
「おばさんは何て?」
『.........。失望したって。暫くは顔を見せないでって言われた。実は今、ホテル生活中でさ。コンサートあったけどアレ以来会ってないから何とも言えないかな。』
千秋は、えっ?と驚いた様子だった。叔母は熱心なステージママだったから、その彼女の行動が信じられないようだった。
「大丈夫なの?....うちに来る?」
千秋の申し出を断る。今の所、不自由なく生活できている。
『−−−−実を言うとさ、私以上に周りが心配してくるものだから......ちょっとだけこわくなってくるよね。ただの擦り傷の筈なのに、そんなに怒られたり心配されたりして、もしかするともっと酷い怪我や病気を負ってしまったんじゃないかって錯覚する。』
「−−−−不運だったのは、貴女が今をときめく高校生バイオリニストだったってことだね。そんなに心配なら、意固地にならないで病院に行けば良いのに。」
『.......。よし、病院に行かなくても良いようにもっと勉強しよう。自分で診察できちゃえば、行く必要なんてないからね。』
そしたら今度は職業として毎日病院通いでしょうが、と彼女に突っ込まれたけれど、聞こえないフリをした。
セミナーは練習室2で行われた。参加者は予め選定されていたのか10人も満たなかった。堂本学長の紹介から始まり、河辺奏子さんが講師として指導をしてくれる。テーマは、バッハ。無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ第1巻だった。予め指定されていた楽譜とノートを取り出しながら、河辺さんの調弦を待った。
『−−−−っ!』
河辺さんは一度ソナタ第2番第3楽章を弾いてみせてくれた。一つのバイオリンで、旋律と通奏低音の二声を弾きわけなければならない曲であり、ボウイングの高度な制御が要求される。それをいとも簡単に弾いてみせてくれるのだから、流石だ。彼女が弾き終わった後は、自然と拍手が舞い上がった。
「−−−−ありがとう。ここにいる皆さんも、とても高い実力を持っていると聞いています。さて、今日のテーマは、バッハの対位法について。皆さんは、バッハについてどれだけご存知ですか?」
河辺さんがまず伝え始めたのは、バッハの幼少時代の話だった。兄の楽譜を夜な夜な写譜をすることから始めた彼はそれからプチ編曲、そして作曲家へと成長していく。
バッハは10才の頃には教会で聖書読譜に不可欠なラテン語を学び、オルガンをパッヘルベルに師事することで対位法を学んでいった。
「ーーーーパッヘルベルのカノンはとても有名ですね。ちなみに、堂本ホールには実際にバッハが使用したとされるパイプオルガンがあるので、興味のある方は是非。」
その瞬間、周りが騒ついた。ここに集まっているのは音楽自体にも興味がある子が多いのだろう。実際の作曲家が使用した楽器に興奮を隠せないようだった。
「さて、対位法とは要するに、神のもとに皆平等という思想の表れです。厳格な宗教人であったバッハは作品の随所に−−−−」
メロディーと伴奏、そこには主従関係が生まれやすいということだろうか。バッハの作品は特徴的だった。
河辺さんの話では、メロディーラインをただ一声と考えるのではなく、一曲の中には出演席が複数あって、それぞれ今はソプラノが歌ってる、アルトが歌ってる、テナーが歌ってる、バスが歌ってる....と考える必要があるとのことらしい。つまりは、ただ与えられたメロディーをそのまま弾くのではなく、同じ楽器であってもメロディーの高低差に基づく弾き分けが必要だということ。同じ旋律でも、ソプラノが歌ってるように表現するには音をキツめに装飾を速く入れたり、アルトの場合では音も装飾も柔らかく入れてみたり、というように。
隣から、袖を引かれる。千秋だ。
「ーーーー知ってた?」
『......特に意識したことなかったかな。今度、もう一度さらってみる。』
「あたしも。」
それからも河辺さんの講義は続いた。♯(シャープ)はキリストが背負う十字架もしくは創傷を表し、♯(シャープ)が増えれば増えるほど受難を意味する曲になること。一方の♭(フラット)は長調ではブドウ−−−つまりは豊かさの象徴、短調では涙を表すことから曲想が変わってくるということだ。
「皆さんはダヴィンチ・コードをご存知ですか?バッハの楽譜も実はそれに似ているところがあります。今日、自宅に戻ったらじっくりと楽譜を見てみてください。彼は沢山の暗号を私達に残してくれています。」
セミナー後、早速バッハのパイプオルガンを見に行くのだろう学生の流れに逆らいながら、教壇に立つ河辺先生のところに向かった。
「先生の講義、とても面白かったです!」
「貴女達は確か、佐藤先生の紹介で来た生徒さん達ね−−−−どうもありがとう。」
千秋の言葉に河辺さんは微笑んだ。
「そうだ、来週の木曜に堂本記念コンサートのリハをやるんだけど聴きに来ない?今はメンテ中なんだけど、ストラディバリで演奏するのよ。それも堂本先生が弾くバッハのパイプオルガン、そしてソプラノ歌手の秋庭怜子とトリオで。」
「秋庭怜子さんって、今最も人気のある?」
「そうよ。才能もあり、それでいて努力家。怜子の歌声はピカイチよ。」
私と千秋は顔を見合わせて、頷いた。是非、聴いてみたい。
「じゃあ、堂本先生と怜子に念のため伝えておくわ。彼女、一見気難しいかもしれないけど、優しい子だから誤解しないでね。」
そう言って河辺さんは連絡のメールを打ってくれた。
『河辺先生はバッハの曲がお好きなんですか?』
私の言葉に彼女はやや苦笑を漏らすと口を開く。
「ーーー貴女達は、絶対音感持ってる?」
私と千秋はお互いに顔を見合わせると、ある程度はと頷いた。
『やっぱり、音に関しては過敏になりますよね。でも生活音が音名で聞こえて気分が悪くなる、といったことはまだないです。』
「あたしも。」
「......そう。感じ方に個人差があるとは言うけど、貴女達が羨ましいわ。私の場合は、敏感過ぎるのか、逆に調性音楽の分析の際の旋律や和音の機能がわからなくなるの。各音の役割による表情が付けにくくなる。だから、ひたすら音楽理論を勉強したわ。必然的にバッハに詳しくなった。」
成る程、と二人で頷いた。
「でも、どうせ知るなら小難しいものだけじゃなく、ちょっとした豆知識も仕入れたいじゃない?バッハは糖尿病で亡くなったらしい、とかね。その方が興味がでて覚えやすくなる。」
河辺さんは気持ちを切り替えるようにパチンと両手を叩くと微笑んだ。
「次回のセミナーはパルティーターーー舞曲をやる予定よ。バロックといえば、舞踏会大好きルイ14世。当時はメヌエットが大流行。さて、お二人さん、その理由はご存知?」
私は少し考えてから、彼は自身の権力を周囲に示したかったから、メヌエットが大好きな彼がそれを流行させることで周りへの牽制をしたと答えた。千秋は、ダンスの中でもとっつきやすいメヌエットを流行らせて、参加者を楽しませて油断させることでいろんな情報を収集するためと答える。
「ーーーーきっと間違いじゃないわ。でも、もう一歩踏み込んでみましょう。」
当時は王家とはいえ暗殺も多かった。主な死因は、毒殺と刺殺。社交場で銀食器を使用することで毒殺予防になり、刺殺回避として王の傍には近しい者達を踊らせ、疑わしい者は外側で踊らせる等距離を置かせた。
「メヌエットは強制参加だった。踊れない人はもう大変、マルセーユに左遷よ。案に死ねって言われてるもんだからね。」
当時のマルセーユは湿地熱帯気候のため、蚊が多くパンデミックが起きやすかったらしい。原因不明の感染症に治療法が十分に確立されていなかった当時の人達からしてみれば、相当恐ろしかったことだろう。
だからこそ、メヌエットを教えてくれるダンスの家庭教師は引っ張りだこだ。公式非公式に関わらずにメヌエットの曲が飛ぶように売れ、使われていく。当然、ここぞとばかりに無名有名問わず様々な作曲家達が沢山のメヌエットの曲を世に出していった。
「ーーーーなんだか、華やかというより」
『血みどろな文化ですね。』
私達の感想に河辺さんは笑った。
「−−−−奏子、そろそろ良いか?隣の練習室1をおさえている。」
教室を覗いてきたのは二人の男性だった。
ピアニストの連城岳彦さん、チェリストの水口洋介さん。どちらもプロの音楽家だ。
対する河辺さんはあまり気が進まないのか、眉間に皺を寄せていた。
「何度も言ってるじゃない。貴方達とは音楽性が違う。トリオは私じゃなく、他の子を誘うべきだわ。」
「分かってる。けど、一度くらい俺たちのデュオを聴いてくれても良いだろ?それから判断すれば良い。」
「貴方達のカルテットはどうするの?志田君や曽根君だっているでしょ。」
「二人とも副職が軌道に乗り始めたせいか、集まりが悪いんだ。それに譜和先生が言ったんだぜ?お前を誘ってみたらどうかって。」
「−−−−譜和先生が?」
河辺さんは暫く悩んでいたようだけれど、溜息をついて頷いた。
「彼が言うなら仕方ないわ。一度だけよ。それでダメだったら諦めてちょうだい。」
あぁ、と二人の男が頷いた。
それから私達に視線を向けてくる。
「お、女子高生かー!可愛いな。名前は?」
私と千秋はいきなりふられたことに戸惑いながらも名前を告げた。二人から、おおっと声が上がる。どうやら私のことも千秋のことも知っていたらしい。
「良ければ君達も聴きに来ないか?そんなに時間は取らせないからさ。若い子達の忌憚ない意見を聞きたい。」
「ちょっと、水口くん。連城くん。この子達を巻き込まないで。」
「なんだよ、相変わらず奏子はかたいなー!別にとって食うわけじゃないんだから良いだろ。」
「日頃の貴方達の行いが悪すぎるのよ。良い?未成年に手を出したら犯罪だからね!それに、この子達だって忙しいんだから。私だけで我慢しなさい。」
河辺さんに背中で庇われながら、彼女に後ろ手で出て行くようジェスチャーをされる。私と千秋はお互いに顔を見合わせると、私達これから用事があるのでと言ってそそくさと退室することになった。
『−−−−デュオ、始まったね。ベートーベン、か。』
「あー、ピアノとチェロのためのソナタ第三番。なんだか、ネチっこいね。それに、ピアノの音。高音域がガタガタ。」
『少し変だよね。普通は調律がちゃんとされていると思うんだけど。』
練習室棟の玄関口で河辺さん達のやり取りを、千秋と話していた時だった。
ドガーンという物凄い爆音とただならない量の土煙を浴びて、思わずしゃがみこんだ。
「ーーーな、に、今の。何かが爆発したの?」
『ーーーっ!!』
千秋の言葉に我に帰ると、走り出す。爆風が起きた方角が明らかに河辺さん達のいた方向と一致していたためだ。嫌な予感が背中を走った。
背後から千秋の呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返っている暇がなかった。セミナー会場を通り過ぎ、河辺さん達の使っていた練習室に向かえば、扉がすでに吹き飛んでいて中の状態が廊下からも分かった。教室全体が瓦礫で潰されていているため、ピアノの状態すらわからなかった。河辺さん、連城さん、水口さんの名前を叫んだけれど返事がない。そして、入り口付近にうつ伏せで倒れているのは。
『−−−−河辺先生!!』
うぅ、と呻き声が聞こえる。意識がある。急いで懐からスマホを取り出すと救急車を呼んだ。コールしている間に連城さん達の名前を叫んだけれど、やはり彼らからの返事はなかった。
『−−−−救急です!場所は堂本音楽アカデミー練習棟1階!三十代女性と男性二人が爆発に巻き込まれました!男性二人は多分瓦礫の下なのか見つけることができません!先生.....女性は背面全体がーーーー』
背中全体が服と一体化していて皮膚が黒い。所々白色もあるが組織がメチャクチャだった。これはもう痛みすら感じられないのではないだろうか。
『−−−−っ!』
ここまでくるとすぐに体温が下がってしまう。私は自分が着ていた上着を脱ぐと河辺さんの背中にかけた。それでもまだ覆うものが足りなくて、思わず視界がぼやけてくる。涙と共にでてきたしゃっくりをあげながら、代わりになりそうなものを探そうと必死で周囲を見渡した。
『ーーーそう、だ』
最初に目に入ったのは自身が持ってきた手提げカバンだった。その中身を漁り、バッハの楽譜を取り出すと出来るだけ多くのページを破いてそれを河辺さんの露出した創部にかけた。
『皮膚.....っ全体が黒く、20%超えてる、っかもしれない!このままじゃ....お願い.....早く助けて!!』
電話越しの女性の了承する声、落ち着くよう促す声が聞こえた。救急車が到着する数分の間に2次被害を防ぐため安全な場所に移動できるならすること、保温すること、常に女性に話しかけて意識の状態を確かめることなど伝えられた。
「小春!!」
暫くして千秋が大人の男性数人を引き連れて走ってきた。その数秒後に彼女の状態を把握したのだろう、千秋は河辺先生と叫んだ。
『河辺先生を安全な所にお願いします。それと何かかけられるものを貸してください!!』
「分かった!」
『それと、連城さん、水口さんがまだ練習室の中にいるんです!多分瓦礫の下に.....』
「なんだって!?」
男性達が気をつけながら河辺さんを持ち上げて少し離れた廊下へと移動させてくれた。他数人の男性は入り口から二人の名前を叫んだり、建物が崩れないかどうか気を配りながら探してくれている。
『−−−−っ!』
河辺さんは咄嗟に腕を守ったのだろうか、お腹で守るように腕が包まれていた。片手には携帯が握り締められている。
各々が着ていたものを脱ぎ、河辺さんの身体にかけてくれた。私は、彼女の携帯を持っていない方の手を握りしめると、ひたすらに声をかけ続ける。
『河辺先生、分かる?寒くない?』
私の指が弱々しく握り締められた。
『喉は痛くない?苦しくない?声出せる?』
出せるわ....そう小さな声が聞こえた。爆発の際に咄嗟に背中を向けたのだろうか、気道熱傷は防がれたようだった。意識が辛うじてあるためか、声が弱々しい。
『背中は.......痛くない?』
ええ、と言いながら再び握り締められる。やっぱり、か。恐らく三度まで到達しているだろう火傷を思うと胸が苦しくなる。
『救急車、すぐ来るからね!もう少し頑張って!』
徐々に棟外から聞こえてくる救急車のサイレンの音と野次馬の声が、いやに耳について離れなかった。