泡禍の遺物1

肩を叩かれる感覚に瞼をあげる。




『...........は、くばさん?』


視界の先で揶揄いの混じる瞳に気づけば、ハッとして周りを見渡した。抱きしめていたバイオリンケースの上に、いつの間にやら彼の相棒である鷹のワトソンが停まっている。キーッキーッキーッ、とワトソンが鳴き、ミラー越しにばあやさんが微笑んでいた。


『すみません、私ったら......いつの間に。』


「よく眠れたかい?僕としては、その無防備な君の寝顔をいつまでも見ていたかったのだけど.......残念。見たまえ。どうやら黄昏の館に着いたようだ。」


ガラス越しに見えたその大きな館は、大きく、それでいて厳粛な雰囲気を纏っている。暗く古めかしいその外観は、どうしても恐怖心を掻き立てた。何故、こんな所で晩餐会を開くのだろうか。怪盗キッドの雰囲気に似つかわないその館に、一抹の不安がよぎった。



「−−−−これが、あの烏丸の旧別邸か.....また随分と悪趣味だ。」


『.........烏丸?』



ばあやさんの車が去っていく様子を見送れば、頭上から呟かれる声に視線を上げる。彼はクスリと微笑むと右手の親指と人差し指の2指を顎に添えていた。



「烏丸蓮耶。実在した大富豪の一人さ。」

『.............』


「−−−−もっとも。彼の年齢を考えれば、既にこの世にはいないだろうがね。」


ここに来る前に、法務局で土地所有者を調べてきたらしい。その人が亡くなってから、この土地と建物は別の人物に渡ったらしいのだけれど、その人物が転々としていたこと、出発時間も迫っていたことから詳しく調べきることができなかったようだ。その正体不明の所有者が、怪盗キッド?






「−−−−お待ちしておりました。白馬様、緑川様。」


白馬さんが旧式のドアノックを鳴らせば、出迎えてくれたのはメイドの格好をした若い女性だった。鼻周りにそばかすを携え、頻りに視線を逸らす彼女はどこか神経質そうな印象を与える。石原、と彼女は名乗った。


「−−−−表に停めてあった車は二台。どうやら僕達は二番手のようだね。」


『...........え?二番?』


どうしたら二番目に辿り着いた、という計算になるのか。首を傾げている私に気づいたのだろう、白馬さんは微笑していた。


「ーーーーはい。ゲストとしてお呼び致しました方の中では、大上様の次に到着されています。」


私の車は裏手の方に停めてありますので、と石原さんは告げた。裏手に従業員専用の駐車場があるらしい。もう一台は、この館のオーナーさんのものだろうとのことだった。


「ーーほう。大上.....といえば、美食家探偵の?」


また、探偵......か。彼女が頷く様子を眺めながら、ついそう考えてしまったのだが、もう仕方ない。このところ、探偵という職業の方に遭遇する確率が異常に高い気がするのだ。彼女にゲストルームへの道程を案内されながら、屋敷内の主要ルームの場所を教えてもらう。ディナーが開かれる大広間、ビリヤードやカードゲームなどができるプレイルーム、図書館、グランドピアノが置かれたサロンルームなど様々な設備があるようだった。
そのサロンルームからほど近いところに、私と白馬さんに充てがわれた個室のゲストルームがある。自室の前に荷物を置けば、石原さんに声をかけられた。




「ーー晩餐会が始まるまで、あと数時間ほどありますが、お部屋で休まれますか?」

彼女の言葉に、どうしようかと迷う。私の代わりに白馬さんが口を開いた。


「ーー因みにこの屋敷内を自由に歩き回っても?」

「今、ご案内したお部屋でしたらご自由にしていただいて大丈夫だと聞かされています。緑川様はいかが致しますか?」

キーッと鷹が鳴いた。

バイオリンが、気になるのだろうか。再びワトソンにバイオリンケースの上に乗られてしまった。行きの車の中でワトソンが血を好むというのは白馬さんから聞いてはいたけれど、勿論私のケースには付着していないはずだ。
ワトソン、と白馬さんは窘めるが、彼はどこ吹く風といった様子だった。白馬さんは苦笑を零しながら、すみませんと告げてきたため、私は首を横にふると石原さんに向き直った。


『バイオリンを弾いても良い場所ってありますか?』


「ーーでしたら、先程のサロンルームはどうでしょう。防音仕様になっています。」

『では、晩餐会の時間までそこをお借りします。』

「分かりました。ーーーあの」


『どうかされました?』


「いえ。バイオリン、お好きなんだな、と。私の従姉妹もバイオリンをしているので。」


『.......石原さんの従姉妹さん?』


「ーーーえぇ。緑川様とは違って彼女は少し...............」


「ーーー少し?」


『ーーー?』


「いえ、何でもありません。それでは何かご用の際はいつでもお呼びください。」


そう言って石原さんはこの場を後にする。ワトソンはキーッと一声鳴いてから、白馬さんの右腕へと飛び乗った。











『とりあえず必要なものはーーーと。』



自室は思っていた以上に清潔に整えられていた。
荷物を軽く整理してから、ディナードレスに着替えるとバイオリンケースを持つ。サロンルームから大広間までは大分距離があったため、できれば練習の後に真っ直ぐむかいたかったからだ。


『ーーーあぁ、忘れていた、』


バックからキッドに渡す予定のハンカチを取り出すと、ケースの表のファスナーを開く。そこに既に入れてあった電子辞書に重ならないように丁寧にしまい込んだ。









『.......白馬さん?』


てっきり、既に屋敷内を探索していると思っていたのだけれど。自室を出れば、廊下で白馬さんはじゃれつくワトソンを構ってあげているようだった。壁に背を預けているその恰好は、長身も合い余って様になっている。私に気づいた彼は、ゆっくりと壁から背を離した。


「ーー緑川小春の単独リサイタル........少しだけ僕達が御拝聴しても?どうやらワトソンも貴女の演奏が気になって仕方ないらしい。」


『..........。貴方がたのご希望にそえられるか、分かりませんよ?』


私は苦笑を零し、目的地であるサロンルームへと向かうことになった。






『ーーー何かリクエストはありますか?』


「そうですね.....それでは君の最も好きな曲を。」


『......私の.....好きな、曲ですか。』


準備をする手を止めた。
これまで数々の曲を弾いてきたけれど、それは周りからのリクエストだったり、リクエストがなければその人に合いそうな曲を選んでみたり、先生から薦められた曲だったり.......ということが多かったため、思わず面喰らう。酷く、困ってしまった。



『ーーーごめんなさい。曲を、白馬さん自身に選んでもらっても良いですか?思いつかなくて。』


「それは、残念。では、パッヘルベルのカノンを。ソロでは中々聴く機会がなくてね。」


思わず、河辺さんを思い浮かべる。実はここ連日、彼女が運び込まれた病院の前で千秋と情報を共有していた。今朝も寄ってきたのだが、ついに「此処まで来たのなら病室に顔を出していけば?」と千秋に諭されてしまった。河辺さんのお母様が、お礼を言うために私に会いたがってくれているとのことだった。結局、お礼を言われるようなことは特にしていないこと、今顔を出したところで私が河辺さんにしてあげられることは何もないこと、身内でも親戚でもない私が、おいそれと会うわけにはいかないとかなんとか言って.......無理矢理彼女を納得させたのだ。



弓を弦に宛てて曲を紡ぎだすと、ワトソンが私の頭上を飛び越し、グランドピアノの屋根と突上げ棒の丁度交差した点にとまる。彼が羽ばたくと同時にサーと心地好い風があたしの頭を撫で付け、その気持ち良さにそっと瞳を閉じた。


ヨハン・パッヘルベルのカノン。

パッヘルベル最大の人気曲だ。
パッヘルベルは、バロック時代の中期にドイツで活躍した作曲家兼オルガニストであり、彼の弟子であるバッハ以前の最も重要なオルガニストとして名をとどろかせている。パッヘルベルはバイオリンの技法にも通じていて、数多くの作品を残していた。


穏やかな旋律を少しずつ変え、模倣し反復していく。ゆったりとしたこのメロディーは、過ぎゆく時を忘れさせてくれる。弓を引く度に、波打ち、起伏だった感情を鎮めてくれる気がした。





「ーー流石ですね。右腕の調子も大分良さそうで安心しましたよ。」


『ーーーありがとうございます。』


「ーー当然、将来は留学を?」


『ーーーーーーどうでしょう。まだ高校に入学して間もないので。』


白馬さんが、欧州に留学する際は教えてくれと微笑んだ。






ワトソンの羽ばたく音に振り返れば、白馬さんの右腕にとまった。その嘴には、黄味がかった切れ端を携えている。白馬さんは手慣れたようにワトソンを撫でながら、それを受け取った。

途端に、白馬さんの視線が鋭くなる。


『........白馬さん?』


「二人の旅人がーー」



『ーーー?』


白馬さんが口端をあげると、私に向けてその切れ端を見せてくれた。


「ーーー天を仰いだ夜、悪魔が城に降臨し、王は宝を抱えて逃げ惑い、王妃は聖杯に涙を溜めて許しを乞い、兵士は剣を自らの血で染めて果てた。」


その古い羊皮紙に印字で書かれたその言葉の羅列に、眉間を寄せる。なんとも不気味な文章だった。


『ーーーこれは?』

「ーーおそらく、40年前の惨劇の手がかりかと。」


『40年前の惨劇........』


白馬さんは本当かどうかは分かりませんよ、と前置きを入れた上で話してくれた。 まだ美しさを保っていた黄昏の館に財界の著名人が集まり「烏丸蓮耶を偲ぶ会」という集会が開かれた、と 。だがその実態は烏丸が生前に収集していた美術品のオークションであり、その品数が300点を超えていたためオークションは3日間行われる予定だった。しかし、2日目の夜。突然の来訪者である2人の男達が持参したマリファナに魅入られてしまった主催者は、彼等を屋敷に招き入れてしまった。そのうちに招待客が奇行に走るようになり、やがて客同士で美術品を奪い合い、名刀や宝剣で殺し合いを始めてしまった、と。


『ーーーっ!』

「ーーもっとも、この惨事は世間に知られる事なく闇に葬られてしまったようですが。」


この僕でさえ此処までの情報を集めるのに大分苦労しましたから、と白馬さんは面白い何かを見つけたようにその羊皮紙に魅入っていた。その、噂の惨劇と文章の中身が酷似しているらしい。


『ーーーその、二人の男性は』

「惨劇をもたらした2人の男は、夜が明ける頃には美術品と共に忽然と姿を消していた、とだけ。」


背筋に寒気が走った。


『............』


「ーー因みに、君の部屋に何やら変わった物はありませんでしたか?」


白馬さんの言葉に首を横に振った。







あれから暫くして白馬さんはワトソンと共に館の探索に出かけて行ってしまった。


『ーーーそろそろニ時間、か。』


暫く練習をし続けていた私だったけれど、少しだけ喉が渇いてしまった。厨房か何処かで飲み物を貰えればと思い、バイオリンケースを持ってサロンルームをでることにした。



ーーードン、と身体に衝撃が走ると同時に、額が鋭く痛んだ。硬い何かが当たった感触に、思わず涙目になって患部を摩る。頭上から驚きと同時に謝罪の言葉が聞こえたため顔を上げれば、随分と体格の良い男性が左胸を押さえていた。


『あ.......こちらこそ......って、あの、左胸、痛むんですか!?』

まさか、今の衝撃で心タンポになったんじゃ。
いや、でも発達が未熟な子供の身体と違って彼は成人だし.......。

焦っている私を見て彼は一瞬キョトンとした後に、暫くして豪快に笑う。左胸の内ポケットから、幾つかのアンプルを取り出した彼は私にそれを見せてくれた。亜硝酸アミル、そう記載されているのを認めれば再度彼を見上げる。


「ーーわしの薬だ。ガラス製だからだろう、君とぶつかった時に胸に押し込まれたようだ。」

『ーーー薬、割れてませんか?』


彼は入念にアンプルを見回してからニッコリと笑った。

「問題ないようだ。もっとも、自室には予備もある。心配ない。」


彼の言葉に、ホッと安堵した。


「ーーわしは大上祝善。君は......どこかで......」


白馬さんが言っていた美食家探偵とは彼のことか。


『ーーー緑川小春です。』


「緑川..........もしや杯戸中央病院の院長の」


『ーーー。』


呟くように言った彼を無言で眺めていれば、彼は用事を思い出したのだろう。挨拶もそこそこに彼は何処かへと走り去ってしまった。暫く彼の後ろ姿を眺めてから、ゆっくりと息をはく。



『ーーーあれ、何の薬だったんだろう?』


そっとバイオリンケースから電子辞書を取り出すと、先程見た単語を入力した。



亜硝酸アミルーーーそれは狭心症の治療薬の一つだった。

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