泡禍の遺物3

 

大上さんの脈拍が触れた。
そのため、今ここで出来る対応としては人工呼吸のみである。一刻も早く彼を病院に運ぶ必要があることから、本当に車が破壊されてしまったのかどうか車の所有者達はその確認をしてくると言って出て行ってしまった。



「ーーーお嬢ちゃんは随分と用意が良いね。」


大上さんの様子を確認しながらバックを押していると、千間さんに話しかけられた。


『........今回は、そうみたいですね。今までの経験が無駄にならなくて良かった。』


思わず苦笑すれば、千間さんはホゥと言って大上さんを眺める。


「ーーー彼は助かりそうなのかい?」


『医者じゃないので何とも.........私達に出来ることはここまでが限界ですし、早く病院で治療してもらわないと。先程使った薬の副作用がいつでてもおかしくはないと思いますし、一命はとりとめても..........シアン中毒の後遺症が残ってしまう可能性だってあります。』


「緑川さん、詳しいのね。」


そう言って毛利先輩は驚いていた。


『.........一応、目指したい職業なので。でも白馬さんやコナン君達の知識には負けますよ。』


毛利先輩にも思い当たるところがあるのだろうか苦笑している。一つしか違わない白馬さん、まだ小学生のコナン君にも及ばない自身の知識の無さをこうも突きつけられてしまえば、表に出せない悔しさが密かに燻っていた。



「ーーー他人と比べる必要なんてないさ。ただね、お嬢ちゃん。こんな話を知ってるかい?」



ある冬の日のことだった。ある農夫が寒さに凍えて今にも死にそうになった蛇を見つけた。彼は可哀想に思い、蛇を拾い上げると自分の懐に入れて暖めてあげることにしたらしい。しかし、蛇は身体が暖まって元気を取り戻すや、その命の恩人に噛みついた。農夫は驚き、助けた恩を仇で返されたことに悔しく思いながらも、蛇の毒におかされて静かに亡くなった。



「−−−−私、知ってます。それ、イソップ寓話ですよね。」


「よく知ってるね。.......農夫と蛇−−−−親切心から助けた結果、自分が痛い目をみるなんて割に合わない話しじゃないか。」


お嬢ちゃんだってそうだよ。大上さんを救命している時に何らかのアクシデントでお嬢ちゃん自身、シアンに汚染されていたかもしれないし、もしも、大上さんが此処にいる全ての人を殺害する計画を立てるような人物だったら、どうするんだい?と、千間さんは呟いた。


『つまり、彼を助けない方が良かった、と?』


「ーーーそうは言ってないよ。老婆心ながら思っただけさ。ただ人を助けるだけではなくあらゆる想定をしておいても無駄にはならない、とね。」



『ーーー心に留めておきます。ですが目の前で人が倒れていたら、それが殺人犯......もしくは自殺企図者だったとしても、私のやる事は.......結局は変わらないと思いますけど。』


「ーーーそうかい。」


千間さんは静かに微笑んだ。弱まる言葉尻に不思議に思って彼女の顔をよくよく見れば、ここ何日か分の疲労が溜まっているのだろうか。深い皺に隠れがちだが、色濃い隈が見てとれた。


『ーーー少し、休まれたらいかがです?なんだか........随分とお疲れのご様子ですよ。』


そう告げれば、千間さんは酷く驚いたようだった。


「ーーー流石は杯戸中央病院院長の娘さんだね。娘は父親によく似ると聞くが.......あながち間違いでもないもんだ。」


千間さんがそう言うと、毛利先輩はえぇ!?と驚きの声をあげた。



『............。千間さんは、自身のお父様に似てらっしゃるんです?』


「ーーーどうだろうね。私の父は学者だってこともあり、家を空けることも多かったから。」


「学者さんだなんて素敵!千間さんのその洞察力と推理力はお父様譲りなんですね。」


「...........おや、嬉しいことを言ってくれる。」


毛利先輩の言葉に、千間さんは眉尻を下げて目を細めた。


『ーーー千間さんのお父様は、きっと家族思いな良いお父様だったんでしょうね。羨ましいです。』


思わずバックを強く握りしめそうになったため、慌てて力を弱める。


「ーーーそう言えば、どうしてお嬢ちゃんはこの晩餐会に参加したんだい。あの坊やの付き添いとは聞いていたが、私はどうにも納得いかなくてね。」


私の感じた動揺を汲み取ってくれたのだろうか、千間さんは話題を変えてくれた。


「白馬さんと付き合ってたり........」


『してません。』


毛利先輩の言葉にキッパリと否定し、溜息をついた。


『ーーー彼に............怪盗キッドに会えるかな、と。』

「..........もしかして、緑川さんもキッドのファンなの?」


彼女の言葉に、静かに首を振った。彼のファンではない。そっと自身のバイオリンケースを見遣れば、仕舞われているだろうハンカチを思い浮かべる。


『ーーー彼にハンカチを。以前、助けて貰った時に彼のハンカチをダメにしちゃったので。』


同じ様なハンカチが買えたので、早く彼に返したかった.....、と告げた時だった。廊下がドタバタと複数の足音で騒がしくなる。


「ーーーどうやら、向こうで何かあったようだね。」


少し様子を見てくると言って、千間さんは広間を出ていってしまった。










それから暫くして戻ってきたのは、コナン君、白馬さん、槍田さん、石原さんだった。この屋敷の裏に停めていたらしい石原さんの車を使って、ここにはいない毛利さん達が近辺の様子を探ってくる算段らしい。その報告をしてくれた後、槍田さんは毛利先輩と石原さんを引き連れて、一方の白馬さんは単独で屋敷の中を探索してくると言ってそれぞれ出て行ってしまった。残ったのは、私とコナン君と未だに意識の戻らない大上さんだけである。正直、大上さんがいつどうなっても不思議じゃないこの状況でコナン君と二人きりにされてしまった現状に少しだけ心細くなってしまった。勿論、仮に大上さんに急変が起こってしまったとして、その際に何かできることはあるのかというとーーー微妙なところだけれど。



「ーーー小春姉ちゃん、大上さんの様子はどう?」


『ーーー特に変わりはないよ。』


「..........そっか。」


私の言葉に、コナン君は何やら考えるように親指と人差し指を組み合わせて顎に充てていた。



「ーーー小春さん、」



大上さんに規則的な換気を与えようとバックに力を入れ終えた瞬間だった。
いつかのように突然変わったコナン君からの呼び名に不思議に思えば、首元にチクリとした痛みが走る。




「ーーーゴメンね。大上さんのことは僕に任せて。」



コナン君のその言葉を最後に意識が白く霞んでいった。













『ーーーっ!』


周囲が騒音で酷く煩い。突如として浮かんだ意識に瞳を開ければ、私の頭は硬い肩に乗せられていた。頭がズキズキと痛む中で横を向けば毛利さんの横顔が見える。慌てて身体を起こせば、ふわりと目眩がして上半身のバランスが僅かに崩れた。


「ーーーあ、おい!」


毛利さんに横から身体を支えられて、混乱しながらも彼に謝罪をする。


『ーーーここは、』


「僕が呼んだヘリの中ですよ、小春さん。しかし、良かった。貴女だけ中々目を覚まさないから少し心配だったんだ。」


白馬さんだ。ワトソンに彼が預けた手紙を....実は崖下で待機していたばあやさんに届けてもらうことで、警察に救助を要請することができたらしい。


『.........目を覚まさない?』


「小春姉ちゃん、覚えてない?大上さんの対応をしている時に突然寝ちゃったんだよ。」


コナン君の言葉に息を呑んだ。


『それでっ、大上さんは?』


「−−−安心して。先にヘリで病院に搬送してもらったから。ヘリに乗っていたお医者さんの話しでは、今の所、状態が安定してるから恐らく命は大丈夫だろうって。」



『そう、それなら良かった。......ごめんなさい....私、いつの間に.......』


「仕方ないよ。僕達、ずっと小春姉ちゃんに大上さんのこと任せっきりで休んでなかったでしょ。きっと疲れてたんだよ。」



コナン君の言葉に納得がいかないながらも、深く溜息をつくことで落ち着こうとした。



「ーーーお嬢ちゃんが落ち込むことはないさ。」


声をかけてくれたのは、私の左隣に座っていた千間さんだった。
それから、彼女は全てを話してくれた。
招待状の主は千間さんと大上さんが仕組んだことであるということを。千間さんは自身の父親が命懸けで遺した屋敷の暗号を、自身がまだ元気なうちに解いてもらいたかったのだと。

ところが、千間さんと組んでいた大上さんは彼の多額の借金を精算することに囚われていた。隠された財宝を独り占めしようとしていたのだろう、少しでも財宝の在り処が分かった時には招いたゲスト全てを皆殺しにする予定だったらしい。それぞれの個室の枕元に置かれた拳銃を互いに使わせることによる仲間割れ、カップの取っ手口に仕込んだシアンを服させることによる中毒死、といった数種類の殺害パターンを組み合わせることによって。


そのことを察していた千間さんは何とか阻止しようと決意し、大上さんを手にかけることにしたということだった。



『ーーーそれで、農夫と蛇.......』



千間さんがしてくれた話の内容を思い浮かべて納得する。彼女は苦笑していた。



「ーーー気づいていたかい。彼は探偵ではないお嬢ちゃんをも殺すつもりだったんだよ。夜食と偽りクラッカーを手渡すことでね。」


毒物がついた指でクラッカーを摘ませることで毒殺しようとしたのだろう、と。


『...............っ』


「ーーー流石に後悔したかい?」



千間さんの言葉に少しだけ考える。



『ーーー正直、気づかないうちに向けられていた大上さんからの殺意に........複雑な気持ちです。理不尽だなって思うし。』


「.............そうだろうね。」


『でもやっぱり彼が助かって良かったと思う自分もいます。例え、どんな人だろうと、人の命は尊いから。今、生きていられるってことが、本当に、貴重なことだと思うから。』


母さんには、できなかった。私は彼女に何もしてあげられなかった。そう心の中で自嘲した。


「.............」


無言の千間さんに気づけば、それに、と言葉を続ける。


『ーーー千間さん、貴女が殺人犯にならなくて良かった。未遂で、良かった。折角のお父様との素敵な思い出、こんなことで汚しちゃ駄目ですよ。』


私がそう言えば千間さんは大きく目を見開き、それから苦笑をこぼした。




「ーーー烏丸に取り憑かれていたのは、どうやら私の方だったようだね。」



彼女は当然立ち上がると、彼女の左側にある扉を開け放した。外気からの風圧で、髪の毛がバサバサと音を立てて揺れる。


『ーーー千間さん?何してるんですか。』


「........ハンカチ、ちゃんと渡すんだよ。」


『ーーーえ、』



そう言った彼女はヘリコプターから身投げをするつもりなのだろう。そう判断した時には既に身体が動いていた。


『ーーーっ!』


千間さんの左腕を掴むと、必死で座席に引き寄せようとする。その瞬間に機体が大きく揺れて私の身体は千間さんと入れ替わるように外界へと飛び出した。



『ーーーひっ』


朝焼けに染まる空が一瞬で反転し、思わず目をつむった。
風圧を直に感じながらも、胃がひっくり返ったような独特の浮遊感に声が出せなかった。



「ーーーおいおい。人助けも良いが、自分が死んじまったら元も子もないだろ。」


腕を引かれる感触と、突然止んだ落下に恐る恐る目を見開けば、目の前にはモノクルをつけた怪盗キッドがいた。



『ーーーっ!?』


「.............ハイハイ。大丈夫ですから大人しくしていて下さいね、お転婆なお嬢さん。」



キッドに抱かれ、支えられている身体を認めれば、助かった安堵感に力が抜けていく。片隅には黄金の光、そして、気を失えって意味じゃねぇよとキッドの焦る声を感じながらも、未だに頭に燻る靄に導かれるように意識が遮断された。














「ーーー眠り姫がようやくお目覚めか?」


次に私が目覚めたのは、秀一さんのベッドの上だった。怠い身体を感じながら、頭を撫でてくれるエメラルドの瞳の彼に意識を向ければゆっくりと言葉が紡がれていく。


「近くの公園のベンチで眠っていたところを、君の知り合いだという青年が見つけてくれたらしい。」


『ーーー青、年?』


「黒羽快斗と名乗っていたが」


『.......あぁ、快斗君か。』


怪盗キッドが恐らく公園まで運んでくれたのだろう。それを偶然通りかかった快斗君がホテルまで連れてきてくれたということか。しかし、それでどうして私は彼の部屋にいるのだろう?と秀一さんに疑問を向ければ、彼は察したらしい。偶々ホテルのフロントで遭遇したため、秀一さんが後を引き継いだということだった。


「ーーーそれで」


君の上着に挟まっていたこれを含めて、何があったのか説明を聞きたいところなのだが、と言って渡された白いカード。そこには、ハンカチは有難く頂戴しましたという一文と怪盗キッドという署名だけが書かれた至ってシンプルなものだった。


『ーーーちゃっかりな人。泥棒さんってそういうものなの?』


「.................さぁな。」



私は傍にいてくれる秀一さんの左手を掴むと甘えるように自身の頬に擦り寄せる。彼の程よく温かいその体温が、私に生を実感させてくれた。



『ーーー秀一さぁぁん.....』



「ーーーどうやら君には休息が必要のようだな。」


彼の声色がいつも以上に気遣わし気だった。


『ーーー少しだけ、疲れちゃった。
でも夕方から用事あるからそれまでには回復しないと..........。』



体力不足かなと呟けば、秀一はくつくつと笑う。トレーニングなら付き合うぞと言う彼に、私は苦笑することしかできなかった。

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