蠱惑のイラクサ

その日の夜。秀一さんが久しぶりに勉強を見てくれるとのことだったため、彼の部屋を訪れていた。勉強を教えてもらうお礼としての演奏はまた後日ということになっている。

テーブルを挟んで、私が先程解いた問題の解答を添削してくれている秀一さんの姿を、頬杖をついてじーっと眺めていれば翡翠の瞳とぶつかった。


「−−−次の問題の解答に行き詰まったか?」


『..........ううん。全然別の事を考えてた。』


「−−−別の事?」



頷いてから、秀一さんって好きな曲ある?と尋ねる。そうした私の質問が意外だったのか、彼は片眉を上げると、添削し終えたノートを渡してくれた。それをチラリと見やれば、よりシンプルな解答法が書かれてあり、あぁ、秀一さんの解き方の方が綺麗だな、なんて考える。



「−−−好きな曲か......波土禄道の血の箒星、とでも言えば満足か?」


はどろくみち...?と呟いてから首を傾げる。有名な作曲家なのだろうかと考えながら彼を見上げれば、秀一さんは苦笑していた。



「どうやら意図する答えではなかったようだな。君が聞きたいのは君の領域内であるクラシック曲の中で、ってことか?」


『.....うん。実はこの質問は、私自身にされたものだったんだけれど−−−答えられなかったの。全然思いつかなかった。これまで沢山の曲を弾いてきたけれど、自分の好き嫌いという視点で曲を見てこなかったから。』


「−−−ほう。」


そう溢した後、徐に口を開く彼に注視する。クラシック曲については俺の領分ではないため今すぐには答えられんが.......と前置きが入った。好きな色ということなら答えやすい、と彼は言う。



『−−−色?』


「あぁ、ちなみに君の好きな色は何だ?」


秀一さんの質問に驚き、慌てて考え込む。様々な色味が脳内を駆け巡ったものの、自分の好きな色と聞かれてもピンとくるものがなかった。


「−−−共感覚.....色聴などの言葉があるくらいだ、音と色は関与する部分が少なからずあるだろう。要は、その曲やその色をイメージした時の自身の感情に注目してみてみると良い。」


秀一さんの考え方は.....時に斬新で、時に難しく、時にシンプルだ。私は彼の言葉を口内で一度反芻させてから、彼を再度見上げた。


『−−−それじゃあ、貴方の好きな色は何色なの?』


「...........。強いて言うなら−−−」


『.........強いて言うなら?』


「−−−黒だな。」


彼の答えに、意外だと目を見開く。てっきり赤色が好きなのだと思っていたからだ。驚きを隠す事なくそう告げれば、それはfamily nameが赤井だからだろうと彼は苦笑いを浮かべていた。


「−−−黒は良い......知られたくない自身の内面を覆い隠してくれる。」


『−−−何だか、哲学的な理由だね。』


「−−−まぁ、同じ理由で嫌いな色でもあるがな。」


『.............。』


それは好きな色とは言わないのでは......と口端をヒクつかせた。



「黒と言えば....」



秀一さんの言葉に首を傾げる。黒川病院の医院長が殺害されたらしいな、と彼は言った。まるで緑川病院を彷彿させるその名前を耳にすれば、反射として眉間に力が入ってしまう。黒川病院と言えば、個人病院の割に結構な規模の病院じゃなかっただろうか。


「−−−おそらく今はどの番組も」


秀一さんが備え付きのテレビの電源を点ければ、各局でそのニュースが流れされているところだった。捕まった犯人は患者の遺族だった!と強調し、報道されている。医院長の犯した医療事故により、亡くなってしまった患者の妹が怨恨を積もらせ続け......その結果、犯行に及んでしまったらしい。何とも悲しい事件だった。



『−−−何だかこういうのを見ると、少しだけ怖くなるね。他人事じゃない、というか。』


秀一さんは私の言葉を聞いて、フッと笑った。


「−−−この事件に関しては、当てはまって欲しくはないがな。」


『..........。どうして?』



「−−−黒川氏は泥酔した状態で患者の心臓の手術を敢行した結果、事故を起こしている。その事実を知った患者の妹が、裁判を起こして闘おうとしたのだが病院側に揉み消されてしまったらしい。今回の事件はそれが発端のようだな。」



『..........もしかして緊急オペ?』


「−−−予定オペの方だ。黒川病院に予め入院していた患者だったらしい。」



テレビでは色々と省略して報道されているがな、と秀一さんは言う。帰宅後に病院から呼び出されて....といった人手や技術面を踏まえて止む無く医院長が緊急手術をしなければならなかった場合は−−−ある意味では仕方ないのかもしれない。実際にそう言う話は聞いたことがある。それでも判断力が著しく低下していると明らかに分かっていながら、医院長とはいえその医師をオペレーターとして起用することは通常ありえないとは思うのだけれど。それに今回の件は緊急ではなく予定手術だという。そういった手術で飲酒をし、しかも医療事故を起こしてしまったのならもう目も当てられないだろう。自分が思っていた以上の最悪の真相に、両手を強く握りしめた。









翌日火曜日。
快斗君と一緒に帰る約束をしていた私は、学校の最寄り駅にいた。学校で待っていろということだったのだけれど、流石にそれは悪いし、この時間は沢山の音高生が駅にいるため一人でいても特に不安はない。彼が来るまでどこで時間を潰そうか......と辺りをキョロキョロと見遣れば、突然左肩に衝撃が走った。


『−−−っ!』


咄嗟にバイオリンケースを両腕で抱えれば、後ろにバランスを崩して尻餅をついてしまう。そのため反利き手に元々持っていた鞄の中身が煩い音を立てて床に散らばってしまった。ズキズキと痛む臀部と道行く人から何事かと見られる視線の数に、顔がジワリと熱くなる。


「−−−すみません、急いでいたもので。」


男の人の声がする。まさかぶつかっただけで転ばれるとは思わなかったのだろうか、矢継ぎ早に大丈夫か?と私の状態を心配するような声が頭上から聞こえてきたため意を決して見上げれば、そこには眼鏡をかけた短髪の男性が立っていた。スーツを着ているということは、仕事帰りのサラリーマンというところだろうか。表情が固いその顔はどこか無愛想に思えるが、彼は私の散らばってしまった荷物を集め出すと、それらを鞄に入れて手渡してくれた。


『あ、ありがとうございます。』


すまないがこれで失礼する、と言って私が言葉を発する間も無く、その男性はそそくさと去っていってしまった。


『−−−イタタ....』


スカートの埃を払いながらどうにか一人で起き上がると、近くにあった休憩スペースの椅子に座りこむ。鞄を漁り、快斗君からの返信を確認するためにスマホを取り出そうとした時だった。


「−−−おや、小春さんじゃないですか。」


そんな私に声をかけてきたのは、知り合いに酷似しているあの人だ。彼はその日に焼けたような顔を綻ばせながら私の隣に座った。


「−−−今、学校帰りですか?」


頷いてから、彼を見上げる。安室さんはこんな所で何をしていたのだろうか。


「そういえば、先程あの辺りで拾ったのですが−−−このスマートフォン、小春さんの物じゃないです?」


彼の手にはスマホが握られている。慌ててそのスマホを拝借しホーム画面を見やれば、とても見慣れた画像があった。アプリを開けば快斗君からの返事も数分前にきていて、電車の遅延でほんの少し遅れる、とのことだった。


『−−−私のです、さっき人とぶつかって転んじゃって。』


「それは災難でしたね、お怪我はありませんでしたか?」


頷けば、彼はホッとしたような笑顔を見せる。その笑顔が零さんと重なって、遠い昔に車で連れて行ってもらったオルゴール館を思い出させた。彼があの時に買ってくれようとしていたあのオルゴール−−−宝石のようにキラキラと輝くそれから流れていたあの曲は、何という曲だっただろうか。私はそんな彼を見やりながら安室さんの好きな曲って何ですか?と尋ねていた。随分、唐突な質問ですね、と言って彼は目を見開く。



『−−−私には、まだ無いんです。好きだと思える曲が。』


素敵な曲は沢山あるのに、と呟けば、安室さんからの視線が突き刺さる。彼は暫くたってから口を開いた。


「−−−そうですねぇ...クラシックの定番ですけど、フランツ・リストの愛の夢第3番あたりは綺麗な曲だなとは思います。」


私の求める曲がクラシックだと察したらしい、彼はそう答えてくれた。


『−−−素敵な曲ですよね。』


「−−−えぇ、それとフレデリック・フランソワ・ショパンの別れの曲....でしょうか。故国ポーランドへと綴った彼の愛情と哀愁−−−その溢れる激情が、僕は好きですね。」


『−−−確か、"あぁ、我が祖国...."でしたっけ。』


「−−−えぇ。」


彼のピアノエチュードの中でも有名な曲だ。

『................どちらもピアノ曲、ですね。』


あ、別にバイオリン奏者である貴女への当てつけで言ってるわけではないですよ?と安室さんは意地悪気に笑った。本当だろうか。



「−−−まぁ、別れの曲が故郷を想って作曲した....というのは彼の弟子であるグートマンの作り話だ、という説もあるようですが。」



今でこそゆったりとした曲ですが、ショパンが最初に着想した際の指定テンポは結構な速さだったらしいですし、と安室さんは続けた。



『−−−へぇ。』


「例え一人の男の嘘で塗り固められた事実だったとしても.....ここまで広く世間に知れ渡ってしまったんだ。最早嘘だろうと何だろうとそれが世の中の真実−−−だと僕は思いますけどね。」


安室さんはそう言うと組んだ指の上に顎を乗せて、流れていく目の前の人々を眺め始める。彼の言葉の意味を考えようと頭の中で反芻しようとした時に、彼はその私の思考を遮るように再び言葉を紡いだ。


「ニコラ・パガニーニに憧れたリスト......それに、幼少期より父親のバイオリンを聴いていたショパン−−−」


どちらもバイオリンに編曲された楽譜があるんじゃないです?と彼は言った。好きな曲をバイオリン曲に限定しなくとも−−−更に言えばクラシック曲に限定しなくても良いと僕は思いますけどね。と安室さんは自身の乗せた顎を手から離すや私を覗き込んできた。なんだったら、ロックでも良いかもしれない、と。秀一さんと言い、安室さんと言い、男の人はロックが好きなのだろうか。そう首を傾げていれば、ふと、気づいた。



『−−−安室さん。』


「−−−はい。」


『近いです。顔。』


あぁ、それは失礼しましたと、彼は近づけてきた顔をすぐに離してくれた。



「−−−憧れの人に、そんなに似ていますか?僕のこの顔。」


君の顔が随分と真っ赤で可愛らしい、と指摘する彼に少しだけ腹が立つ。両手を頬に当てて安室さんを睨みつければ、彼は含みがある笑みを溢した。

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